自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2053冊目】木下古栗『金を払うから素手で殴らせてくれないか?』

 

金を払うから素手で殴らせてくれないか?

金を払うから素手で殴らせてくれないか?

 

 



「IT業界 心の闇」「Tシャツ」「金を払うから素手で殴らせてくれないか」の3編が収められている……が、このタイトルから内容を類推するのは不可能に近い。

週刊ポストからのOLぶっちゃけトーク引用からはじまる「IT業界」は、ツツイヤスタカ的シュール展開と思いきや、衝撃のラストに全部もっていかれる。「Tシャツ」も、話の流れがどんどんずれまくった挙句の、3ページにわたる「まち子が」の連発に身も心も絶え絶えとなる。「金を払うから…」はのっけから異次元感満載。なにしろこれは、失踪した「米原正和」を、当の米原正和と一緒に探しに行くという話なのである。

解説不可能、というか不要。得体のしれない展開と独特のリズムの文章に、ひたすら酩酊し、あるいは悪酔いするための一冊だ。特に「Tシャツ」のラストはロシアの怪物ソローキンを思わせる(この人の作品の個人的な印象としては、ソローキンとカフカ筒井康隆を足して3で割ったような感じ)。決してメジャーになることはないだろうが、日本文学の片隅で異様な花を静かに咲かせてほしい作家である。

【2052冊目】柳澤寿男『戦場のタクト』

 

戦場のタクト―戦地で生まれた、奇跡の管弦楽団

戦場のタクト―戦地で生まれた、奇跡の管弦楽団

 

 
日本人というくくりで人を見るのは好きではないが、それでもこの本を読み終わって「こんな日本人指揮者がいたのか」とびっくりした。

指揮者になるまでのいきさつが面白い。西洋音楽史の先生がウィーンに行くというので、突然の思い付きで自分もウィーンに。そこでたまたまウィーンフィルを指揮する小澤征爾をみて「指揮者になりたい!」と即決。帰国後、リハーサル中の佐渡裕をいきなり訪ねて「弟子にしてください!」と直訴。指揮の勉強など、まったくしたことがないにもかかわらず、である。

こういうエネルギーの持ち主だから、指揮者になった後もものすごい。というか、ここからがこの本のテーマなのだが、なんと、内戦の記憶もまだ生々しく残るバルカン半島に単身赴き、コソボフィルハーモニー交響楽団の常任指揮者に就任、さらには民族共栄を願ってバルカン室内管弦楽団をつくりあげてしまうのである。

音楽に国境はない、とよく言われる。だが、本当にそれを実現するには、どれほどの努力が必要か。著者はまさにその努力を成し遂げた人物なのである。空爆で崩壊状態の建物、民族同士の対立がまだ残る人々。でも、だからこそ、「いざ戦争となったら、私は銃を手に取って戦地に向かう」と言っていた人が、演奏を経て「やはり音楽に国境があってはならない」と語ることに、深く感動させられる。

まったく知らなかったコソボの「今」もリアルに描かれており、あの内戦と空漠がどれほどすさまじいものだったか、その後を生きることもまた、どれほど大変であるかがよくわかる。印象的だったのは、その中で、人々がちょっとしたジョークにもよく笑うというくだり。過酷な状況だからこそ、人は笑うことを必要とするのかもしれない。

【2051冊目】最相葉月『セラピスト』

 

セラピスト

セラピスト

 

 

面白く、そして懐かしい一冊だった。懐かしいというのは、私自身が大学で心理学科に身を置き、その手の本もいろいろ読んでいたから。特に河合隼雄の本はずいぶん読んだ。私のモノの考え方は、かなりこの人の影響を受けていると思う。

とはいえ、その後は心理療法の世界からずいぶん遠ざかってしまった。今は福祉系の部署にいて、いろんな相談に乗ることも多いので、カウンセリングの方法論や考え方はずいぶん役に立っているが、本格的な心理療法とは縁遠いまま。本書に出てくる箱庭療法風景構成法も、知識としては知っていても実践したことはない。

なので、最初は心理療法にうさんくささを感じていた著者が、実際の体験を通じて箱庭療法風景構成法に目を開かされていく過程は、非常に興味深く読めた。私自身はこうした療法にあまり疑問を感じないまま勉強していたが、確かに社会一般の常識からすれば、「箱庭をつくる」「風景を描く」といった療法にどれほどの効果があるのか、疑わしく思えるのも当然かもしれない。

だが、実際に一人のクライエントが作った箱庭を時系列で眺め、その変貌を見れば、やはりそこには「何かがある」ことに気づかされる。特に風景構成法で、著者自身の描いた風景への中井久夫のコメントは凄かった。自分の解釈を押し付けるワケではなく、むしろ著者自身の気づきを促していくのだが、それでいて歴然と「今まで気づかなかった自分」が風景の中に投影されているのに気づかされるのだ。

ちなみに本書に登場する臨床心理家たち全員に共通して印象的だったのは、この「セラピストの解釈を押し付けない」「場合によってはクライエントの解釈も途中で止める」という「節度」であった。これはカウンセリングでもそうなのだが、あまりにも急激な自己開示や解釈の進展は、かえって症状の悪化や、最悪の場合はクライエントの自殺にまで至ることがあるのである。このことは心理療法独特の問題なのかもしれないが、福祉や医療の現場でも意識すべきことであるように感じた。

さらに、こうした「時間のかかる」療法を行うことが今や難しくなっていること、「悩めない」学生や引きこもりの増加など、心理療法をめぐる時代の変化にも驚かされた。これほど心を病む人が増え、今こそ心理療法が求められている時代はないように思えるのに、その心理療法をめぐる状況はかえって厳しくなっているようなのである。河合隼雄中井久夫の業績が今後、誰にどのようなカタチで受け継がれていくのか、「元心理学科」「元心理職」としては気になるところである。

【2050冊目】メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』

 

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

 

 
ちゃんと読んだのは、実ははじめて。ホラーかサスペンス系のお話かと思っていたら、涙が出るほど哀しい物語だった。

生み出された人造人間が「怪物」とか「悪魔」とばかり呼ばれ、名前さえ与えられていないのが、そもそも哀れである。しかも、もともとは善良な本性をもっているのに、姿かたちの醜さで、自らを生み出したフランケンシュタインにも忌み嫌われる(醜形のために、親にさえ忌み嫌われる子供を思わせる)。それならせめて、同じ人造人間の仲間をつくってほしいと願うものの、それさえあっさり裏切られる。

自分が生み出したにも関わらず、責任を取って面倒を見るどころか、一方的な理屈で嫌悪するという人間の本性が容赦なく描かれる。その姿は身勝手きわまりないが、それゆえにかえって他人事とは思われない。自ら産んだ子供を虐待する親から、原子爆弾を生み出した科学者まで、わたしたちは多かれ少なかれ「フランケンシュタイン」なのかもしれないのだ(あ、ご存じかとは思いますが、フランケンシュタインというのは怪物ではなく、それを作り出した科学者の名前です)。

だから本書を読むと、フランケンシュタインの勝手な理屈に腹が立つ一方、怪物の悲哀に接してどこか疚しさを感じてしまうのだ。私たちの多くが、あくまで身勝手な「フランケンシュタイン」の側にいることが、読むほどに容赦なく突きつけられるからである。

この怪物が実はきわめて善良で人間味にあふれ、しかも高い知能と『若きウェルテルの悩み』や『プルターク英雄伝』『失楽園』(あ、渡辺淳一じゃなくてミルトンね)に感動する感性を持ち合わせているのも意外であった。読むほどにフランケンシュタインと怪物の「どっちのほうが人間らしいのか」と思わざるを得ない。人間ほど「非人間的」なヤツは、実は存在しないのかもしれない。そんなことを感じた一冊だった。

【2049冊目】白洲正子『遊鬼 わが師わが友』

 

遊鬼―わが師わが友

遊鬼―わが師わが友

 

 
「幽鬼」ではない。「遊鬼」=遊ぶ鬼、遊びの鬼である。本書に登場する人々は、まさに人生を遊びぬいた達人ばかり。青山二郎小林秀雄、あるいは梅原龍三郎洲之内徹といった錚々たる面々に加え、井伏鱒二の小説のモデルになったという「珍品堂主人」秦秀雄、ある種天才的な染色作家の古澤万千子など、知らなかった人物の評がおもしろい。中でも気になったのが、書も絵も歌もこなす「現代の文人」早川幾忠。その才能もすばらしいが、そのいずれも専業とせず「素人」を貫き通したのも立派である。

そう、本書に登場する人々の多くが魅力的なのは、「素人」であるところなのだ。「玄人」「プロ」であることが評価され、もてはやされるというのは、専門家であるかどうかという点でしか人を評価できなくなっているということでもある。だがそれは、いわば鑑定書付きの名画や骨董ばかりをありがたがることに等しい。

白洲正子は、そこをあえて「素人」の目利きをしてみせる。そのためには、世間の評価に依らず、その人の作品や人物を見抜く眼力が必要だ。だが、かつてはそんな「素人」が文人と呼ばれたのだ。早川幾忠について書いた文章の中に、こんな一節がある。

「誰もかれも玄人の芸術家になりたがる御時世に、自から素人と断言する人を私は立派だと思う。いや、未熟なものが玄人面してのさばり返っている現実に、先生は業を煮やしていられるに違いない。それを「若気の至り」と呼んだのであろう。「文人」について、今まで私はあまり考えたことはなかったが、それというのも現代に文人がいなくなったせいもある。池大雅や浦上玉堂は、或いは三味線を弾き、琴をかなでながら、放浪の先々で詩を作り、画を遺した。一芸に達した人は、諸芸にも通ずる筈で、何も一筋の道にこだわる必要はあるまい」

本書に書かれた時代からさらに数十年を経た現在、果たしてこんな「素人」がいるだろうか。だいぶ卑近な例だが、例えばyoutubeで大金を稼ぐユーチューバ―など、ある意味「素人」かもしれない。だが、問題はそこに目利きがいないことなのだ。アクセス数だけが価値となってしまい、「文人」の眼が失われている。それではユーチューバ―は文化にはなりえない。