自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1251冊目】マリオ・バルガス=リョサ『密林の語り部』

密林の語り部 (岩波文庫)

密林の語り部 (岩波文庫)

冒頭、サウルというユダヤ人青年が登場する。顔の半分に醜いあざがあるが、そのことをからかわれたり、侮辱されたりしても、彼は決して怒らない。その理由は、怒りに支配されている者は世界の秩序を曲げてしまい、「善の神タスリンチと悪魔のキエンチバコリの息吹きから万物が誕生した、原初の混沌に戻る」(p.24)ことになってしまうから、だと言う。

その青年は、アマゾンの奥地に住むインディオについての深い知識と、彼らへの「賞賛の念を含んだ敬意」をもっていた。そして、ついには都会を離れ、自ら「語り部」として密林の奥で暮らすことになったのである……。

「私」の現実の体験と、密林の奥で語られる物語が、本書では入れ子状になっている。そのため、なかなか全体の物語像がつかめない。そのことに最初は戸惑ったが、読むうちに筋書きよりも、アマゾンの奥地の密林の息吹や、そこで暮らすインディオたちの、自然と一体化した呪術的な生活感覚のトリコになっていく。

読みながら、以前読んだ『ヤノマミ』を思い出していた。文明の中で忘れられたホンモノの「知恵」が息づいているのを感じた。

一方で、同じ南米の作家ガルシア=マルケスのことも思い出していた。もっとも、マルケスの小説は読み手を物語の渦のど真ん中に引きずり込むのに対して、本書はやや俯瞰した視点、言い換えれば「文明」の側の冷めた視点から、インディオたちを眺めているような気がする。もっとも、マルケスの場合は文明と切り離されたインディオではなく、ヨーロッパから持ち込まれた文明と南米の呪術的感覚が一体となったリアルな南米を描いていると考えれば、そもそも比べること自体に無理があるのかもしれない。

本書はフィレンツェで始まり、密林の奥の物語世界を通り抜けて、またフィレンツェで終わる。しかし読み終わった後、いったいどちらがホンモノの世界なのか、よく分からなくなっていることに気がつく。なにしろ、密林の奥の「語られた世界」のほうが、フィレンツェやペルーの都市よりもはるかに質感があり、リアルで、われわれの感覚に直接迫ってくるのだ。

特に印象に残ったのは、四肢の欠損などの障害をもつ子供を、生まれてすぐに殺してしまうというくだり。そういえば『ヤノマミ』では、生まれた赤子を産婦自身が絞め殺すショッキングなシーンがあった。それもまた、シビアな環境の中でギリギリの生を迫られる彼らならではのものなのだろう。そうやって見ていくと、インディオの生活って、実は、われわれの「文明」生活を映し出す、ある種の「鏡」なのかもしれない。

ヤノマミ 百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)