自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1822冊目】『小林秀雄 学生との対話』

学生との対話

学生との対話

この本は「ジャケ買い」した。最初は「今さら小林秀雄……?」とも思ったが、表紙の写真を見ているうちに、この人の話をちゃんと聞いてみたい、と思った。すばらしい写真、すばらしい装丁に感謝。

いやいや、中身もすばらしかった。小林秀雄というと「批評の神様」なんて言われていて、文章もどことなくとっつきづらいというか「構えている」という先入観があったが、本書の小林秀雄は非常にわかりやすく、しかも自由闊達。特に学生からの質問に答えるあたりは、なんとも変幻自在でチャーミング。にもかかわらず、鋭い発言でこちらにまっすぐ切り込んでくることもあり、片時も油断ならない。

繰り返し書かれているのが、歴史のこと。小林は歴史を単なる「自分の外にある知識」として捉えることを戒める。小林によれば、歴史とはすべてわれわれの「現在の心の中」に生きているものなのだ。したがって「歴史をよく知るということは、諸君が自分自身をよく知るということと全く同じ」(p.25)なのだという。

「諸君にとって子供の時代は諸君の歴史ではないか。日記という史料によって、君は君の幼年時代を調べてみたまえ。俺は十歳の子供の時に、こんな事を言い、こんな事を書いている。それは諸君にとって史料でしょう。その時諸君は歴史家になるでしょう。十歳の時の自分の日記から自己を知るでしょう。だから、歴史という学問は自己を知るための一つの手段なのです」(p.25-6)


したがって、自己と切り離した歴史などというものはありえない、ということになる。「歴史家は人間が出来事をどういう風に経験したか、その出来事にどのような意味あいを認めてきたかという、人間の精神なり、思想なりを扱うのです」(p.26)ということなのだ。う〜ん。

そして、これは歴史を扱う方法であると同時に、自己認識の方法でもあるという。つまり、われわれは現在の「自分」をリアルタイムで知ることはできない。われわれが知り得るのは、常に過去の自分である。

「君が自分を知りたい時も、直接には君自身を知ることはできないのです。直接自分を知るなんて、そんなのは空想ではないかな。自己反省などと言うが、そのとき君自身はどこにいるのですか。君自身を反省するとは、君の子供の時のことを考えることだ。子供の自分は他人ですよ。歴史的事実ですよ。それは君の歴史かもしれないけれども、現在の君ではない。もう過ぎ去った歴史的事件です。だから、君の子供時代を振り返ると、君のことがわかってくる」(p.103)


こんなふうに「わかりやすいが奥深い」ことを語れる人は、滅多にいない。歴史とは自分なり。自分とは歴史なり。すばらしいじゃありませんか。

結局、出発点は常に「自分」にあるのかもしれない。ある対話の中では、ベルグソンヘーゲルを読んだことがなかった、というエピソードが紹介される。当時のヨーロッパの知識人で「ヘーゲルを読んでいない」なんて、普通ならありえないことである。しかしベルグソンはそうだった。なぜか。

「というのは、あの人は自分に切実な問題だけを考え続けたからです。『物質と記憶』という本を書き上げるのに八年かかっています。八年かけて、ようやくあの薄い本を書き上げたのです。その長い間、あの人の心を占めていたものは、精神と肉体とはどういう関係があるのかということだけで、ほかのことなんか考えていやしないのですよ」(p.64)


自分にとっての「切実」に向かわずに、ただ借り物の知識だけを抱え込んでも、何にもなりやしないのだ。別のところではこれを、孔子の「憤せざれば啓せず」という言葉を引きつつ、「あなた自身が憤することが大切だ」(p.90)と、小林は学生に檄を飛ばす。

そうやって見ていくと、小林が学生からの質問に答える際に、熱心に答えているものと冷淡に突き放しているものがあるのだが、その違いも見えてくる。学生の質問が「自己の切実から発しているかどうか」によって、小林の答え方がまるで違うようなのだ。例えば、天皇についての小林の見解を質問した学生に、小林はこう答えている。

「ああ、君はどうして、そういう抽象的な言葉を出すかな。君は天皇というものについて、関心がある? 天皇制がどうだとか、民衆意識がどうだとか、そういうことに僕は答える興味がないんだよ。というのはね、君は心の底からそういうことに関心があるわけではないからだ」(p.107)


この「抽象的」というのが、どうやらひとつの決定的なNGワードであるらしい。ではそうならずに、自分にとっての「切実」を見い出すにはどうすればよいのか。それくらい自分で探せ、と言いたくなるところだが、小林はいくつかヒントを出している。一つは先ほど書いたように、自分が「憤する」局面を捉えること。もう一つは、感動ということだ。どうやって本居宣長までたどり着いたのか、という学生の質問に、小林はこう答えているのだ。

「…だから、どうして宣長までたどり着いたか、確かなことは言えません。ただ、感動から始めたということだけは間違いない。感動というのは、いつでも統一されているものです。分裂した感動なんてありません。感動する時には、世界はなくなるものです。感動した時には、どんな莫迦でも、いつも自分自身になるのです」(p.151)


もう、何も言うことはない。いや〜、やっぱり読んでよかった。いろいろ反省させられる部分も多かったが、そのぶん見えてきたものが実に多く、しかも深かった。やっぱりこの人、スゴイ。