自治体職員の読書ノート

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【1468冊目】青柳いづみこ『六本指のゴルトベルク』

六本指のゴルトベルク

六本指のゴルトベルク

二足のわらじ、という表現では足りない。天は二物を与えたもうた、とつぶやき、空を仰ぐのが正しい。

ピアニストにして文筆家。しかも、どっちもかなりの本格派だ。「プロ」というと「その道一筋」の人が多いが、この人は「その道ふた筋」のプロである。

二つの道をふたつながらに推し進めた人には、よいことがある。「その道一筋」の人にはなかなか見えてこない、いろんなものが見えてくるのだ。豊かな読書経験を踏まえ、音楽家ならではの目線でさまざまな本をみごとな文章力で料理した本書など、まさに著者ならではの一冊だろう。タダの「音楽家」でも、はたまたタダの「文筆家」でも書けない書評集だ。

それにしても、音楽が重要な役割を果たす本(主に小説)がこれほど多いということに、まず驚いた。しかも、かなり音楽の世界に詳しい人でないと分からないようなことが実はしっかりと書き込まれ、それが小説全体を読み解くカギになっていたりするからあなどれない。

とはいえ、小説を読むたびに出てくる曲の音源を探すのも面倒くさいし、そのために音楽史を勉強するのもごめんこうむりたい。そんな大多数の怠惰な読者にとって、本書は実にありがたいガイドなのだ。しかも、紹介されているのは、単に曲や演奏家の知識だけではない。著者は「音楽」というものの本質にまで深く切り込み、それによって小説そのものの奥行きをぐっと深めてくれている。

例えば最初の章ではトマス・ハリスレッド・ドラゴン』『羊たちの沈黙』『ハンニバル』が取り上げられるが、著者が気になるのは6本あった左手の指を5本にした(つまり一本の指を切除した)レクター博士はさぞハープシコードを弾きにくかったことだろう、とか、そもそも登場するグレン・グールドゴルトベルク変奏曲は2回行った録音のどちらなのか、とか、小説『ハンニバル』ではレクター博士ハープシコードを弾いていたのに映画ではピアノになっていたのはなぜなんだろう、とか、まあつまりはそうしたことばかりなのだ。

あるいは中山可穂『ケッヘル』ではケッヘル番号(モーツァルト作品の整理番号)ですべての作品を覚えているマニアのことから、一転して音楽家の「純粋培養」に思いを馳せ、ポーラ・ゴズリング『負け犬のブルース』では、クラシックとジャズの違い、ジャズに転身することを「ころんだ」と呼ぶクラシック界のメンタリティに触れつつ、演奏そのものの快楽にまで思いを至らせる、といった具合だ。

中で忘れがたいのはパトリック・バルビエ『カストラートの歴史』などをめぐる2章。17〜8世紀ヨーロッパの去勢歌手「カストラート」は、わずか7〜8歳の頃に大変なリスクの中で去勢手術を受け、さらに10年にわたる厳しい訓練を強いられる。それでもモノになるのはせいぜい1割程度らしいのだ。となると残りの9割はどんな運命を辿るのだろうか……と考えるとゾッとするのだが、著者はここで「なんだか、ピアノのけいこに似てるなぁ」とぽつり、つぶやく。

実際、カストラート予備群の少年たちはせいぜい7、8歳で(ということは親の意向で)こうしたハイリスクな道に足を踏み入れるのだが、ピアニスト予備群(に限らず音楽の早期教育を受ける子どもたち)もまた、幼い頃から、自分の意志とも才能とも関係なく日々の練習に追われることになる。

「ものごころつかないころからピアノの前に座らされ、友達が「あっそびましょ」と誘いに来ても、「おけいこだから」と断らなければならない。練習ノルマは一日三時間…(略)…週に一度のレッスン。本当はゆっくりしていたい日曜日。先生の家が近づくと、フツーにお腹がいたくなる。レッスンはみっちり一時間。めったにほめていただけない。ここがダメ、あそこがなってない、譜面の読み違いが多い、書いてある指使いを守っていない、今週は練習不足だ、もっとしっかりおけいこしなければ、プロのピアニストはおぼつかない……」(p.58)

これは著者自身の経験でもあり、今も毎日のように練習に追われている「現代のカストラート」たちの姿である。にもかかわらず、プロになれるのはほんのわずか。「明治の洋学導入以来、西洋に追いつけ追い越せと努力を重ねてきたピアノ界は、すぐれた教育システムと生来の勤勉さから有能な人材を多数育成したが、その人材を活かすことができる受け皿を同じような熱心さで開発することを怠ったがために、超人的な努力の多くが宙に浮き、社会に還元されないまま打ち捨てられている」(p.228)

そして自分がプロの音楽家になれなかった親は、自分がしてきた努力の「元を取る」ために、今度は自分の子どもを音楽家にしようとする。そして早期教育。毎日三時間の練習に、週一回のレッスン……。考えるのも恐ろしいことだが、日本の音楽教育市場の少なくない部分は「音楽家になれなかった親たち」によって回っているのではないのだろうか。

そんな日々を精神形成期である幼少期に送っていれば、中には精神に変調をきたす人があらわれても不思議ではない。フランスのピアニスト、エレーヌ・グリモーの自伝『野生のしらべ』には自身の病的なこだわりが告白されているというし、エルフリーデ・イェリネク『ピアニスト』もまた、母親の夢を背負わされ、40歳近くになっても母の支配から抜け出せない女性が、男性経験さえないにもかかわらずSM願望を募らせていくという小説だ(奇才ミヒャエル・ハネケが、さらにこれをぞっとするような映画に仕立てているのをご覧になった方もおられるかと)。最近でいえば映画『ブラック・スワン』が、バレエの世界を舞台に、似たようなテーマを扱っていた。

こういうのを読むと早期教育も考えモノだが、一方で、音楽の持つ力、その素晴らしさも存分に語られている。ペルーの日本大使館で起きた人質事件を題材にしたアン・パチェット『ベル・カント』では音楽の力がゲリラたちをも変えていく(これはちょっと読んでみたい)。

トルストイ『クロイツェル・ソナタ』では音楽が男女を結びつけるものすごい力をもっていることを明らかにしているし、スターリン時代のソ連を舞台としたアンドレイ・マキーヌ『ある人生の音楽』では、青年ピアニストのアレクセイが、たった1回の演奏を10年間の収容所生活と引き換えにする(これも面白そうだ)。

音楽をめぐる、深い深い愛と憎しみ、崇敬と恨みのアンビヴァレンツを、思い知らされる一冊。本書を片手に、音楽小説を読み、そして音楽が聴きたくなること請け合いだ。

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