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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1443冊目】伊藤比呂美『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』

人類・人間・人生

とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起 (講談社文庫)

とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起 (講談社文庫)

前々から気にはなっていたのだが、この人の本を読んだのは初めて。一読、びっくりした。こりゃすごい。

文章がすばらしい。いわゆる「美しい日本語」とかいうものとはちょっと違うかもしれないが(失礼)、言葉が息をしている。文章の表面にたくさんの気泡があって、そこからいろんなものが出入りしている、というか。

「申しました」「おります」のような妙に丁寧な言葉遣い。「わたしはおぼえた、すべてのことばを」「わたしは願う、このようなときにわたしがゲームボーイを持っていれば」のような英文直訳調の会話文(著者の娘「あい子」)、ぐるぐる回る思念をそのまま転写したようなぐるぐると長い文章。

しかもその中に、梁塵秘抄宮澤賢治中原中也謡曲から古事記までの「声」が織り込まれている。ひとつながりの文章からいろんな声が聞こえてくるような、今まで読んだことのない日本語。内容よりも何よりも、まずはその「言葉」に呑み込まれ、ぷかぷか浮かぶその快感。

上野千鶴子の解説にもあるとおり、これはまさに虚実取り混ぜの「語り=騙り」である。ことばを読む声が、どこからともなく聞こえてくる文章。しかもその内容ときたら、えらく下世話な、親の介護とか夫とのケンカとか娘とのバトルのようなものばかり。

だがそんな「下世話」をこの韻律、この文章で語ることに意味がある。俗が俗を超え、下世話が下世話を超える。そこにあるのは、伊藤「しろみ」という一人の女の、魂の震えそのもの。それがまちがいなく文字に転写されているから、読み手の心もまた震えるのだ。う〜ん。すごい。

途中から、誰かに似ている、という気がしてならなかった。一般には、著者は石牟礼道子と似ていると言われることが多いらしく、著者自身も石牟礼道子をリスペクトしているらしい(ご本人も「誰そ彼」さんとして登場する)。しかし、私にはあまりピンとこなかった。

むしろ読み終えてから、ああそうか、と思ったのは、西原理恵子。詩人とマンガ家、文章とマンガと、全然違う表現形式だが、どこか根底でこの両者は相通じるものがあると感じる。それが何なのか、本文を読み通しても結局よく分からなかったが、先ほども言及した上野千鶴子の解説を読んで、射抜かれた。そこでは、著者のことを「業のふかい女」と表現していたのだ。「業のふかさを芸にしてみせてほしい」とも。

「業」。これこそ両者を貫くキーワードではあるまいか。業のふかさを芸にする。それこそ伊藤比呂美の言葉であり、西原理恵子のマンガであろう。

ちなみに、本書全体を通して、私が一番印象に残ったのは次のくだり。言葉がもだえているのが、聞こえますか。

「わるいことをいっぱいしてきました。しないではいられなかったんです。女がひとりおとなになっていこうとしたら、生臭いこともわるいことも思いっきりしないではいられなかったんです。そのけっか万の仏に疎まれたようなこの苦労、男で苦労し子どもで苦労し、またまた男で苦労して、一息ついたと思ったらこんどは親で苦労しております」(p.98〜99)