自治体職員の読書ノート

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【1406冊目】宮尾登美子『櫂』

櫂 (新潮文庫)

櫂 (新潮文庫)

舞台は戦前の高知。15歳で渡世人の夫、岩伍に嫁いだ喜和は、芸妓紹介業という商売に抵抗を感じつつも夫に仕えるが、やがて夫が浮気相手に産ませた子、綾子を引き取ることになり……。

著者の自伝的小説、いやむしろ、著者を育てた家族を描写した作品というべきか。どこまで事実なのか分からないが、そういう予備知識はなくても、単にひとつの小説として堪能できる傑作だ。

とにかく文章が見事なのだ。土佐の下町や大勢が出入りするにぎやかな家の風景から、喜和の心情の移り変わりの肌理に至るまで、全部の描写に血が通っている。無駄な言葉はなにひとつ使わず、それでいてぴしりとその場の光景が伝わってくる。私は着物のことはよくわからないが、よくできた着物の仕立てのような、絢爛、豪快、そして繊細な文章だ。

冒頭に書いたように、本書は著者自身の幼少期を重ね合わせて書かれた小説と言われる(著者自身をモデルとしているのが綾子らしい)が、どの登場人物も、個性的で、かつ奥行きがあって忘れがたい。

喜和について言えば、夫に従うばかりでおとなしく受け身だったのが、浮気相手の子を家に入れるとの申し出に「それくらいなら子を殺してやる」と叫んだり、それでいてある事件をきっかけに誰よりも献身的に赤子の世話をしたり(この子が後に母と一心同体のようになり、母に暴力をふるう父に向って抜き身の刀を振り回すまでになる)と、その心の揺れ動きが実に巧みに描かれている。夫の岩伍は、冷酷な商売人のように見えてそこらの浮浪児や恵まれぬ子を家に引き取って育てるような、極端に面倒見の良い一面をもつ。他の人物も、つかみやすいが決して通り一遍の人物にはなっておらず、いろんな矛盾を抱えつつ一人ひとりがしっかり「キャラが立って」いる。

なかでも強烈だったのは、遊郭の女楼主である大貞の圧倒的な存在感。岩伍の浮気を知って家を飛び出した喜和を迎えにくるところから、不義の子を家に入れる算段までをやってのける手練手管は、背筋が寒くなるほどの老練だ。「鬼の貞婆」と呼ばれる名うてのやり手でありながら、綾子が来ると三日にあけずその様子を見舞い、鬼の名が泣くほどに赤子べったりとなるあたりなど、大貞自身の過去も忍ばれてなんともやりきれないものがある。

やりきれないといえば、そもそも喜和自身の境遇が、まあなんとも切ないのだ。この時代の女性とはこんなにも無力で、哀切な存在であったのかと思わせられる。つかの間の幸せがあってもすぐに取り上げられ、夫の岩伍は商売と女に走り、息子は病気で早世し、唯一残ったと思われた綾子でさえ最後には別れざるをえなくなる。その理不尽に怒り、哀しみ、それでもその流れのままに生きざるをえない哀しさが全編を覆って印象的だ。

それにしても、ホントにこれが著者の自伝的小説なのだとすれば、この人はなんとも過酷ですさまじい人生のスタートラインを切ったものである。着物のような文章を読みたければ、宮尾登美子を読むとよい。続編の『春燈』を読むのが楽しみだ。

春燈 (新潮文庫)