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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1208冊目】古賀敬太『シュミット・ルネッサンス』

国家・市場・労働

シュミット・ルネッサンス―カール・シュミットの概念的思考に即して

シュミット・ルネッサンス―カール・シュミットの概念的思考に即して

シュミットの思想的ポジションを、その批判と継承の系譜を通じて描きだす一冊。シュミットで読んだのは『政治的なものの概念』一冊のみであるが、この思想がどういうふうに位置づけられるのかが知りたくなり、手に取った。

シュミットといえば、どうしても連想されてしまうのがナチズム。実際のところ、シュミットとナチズムの関係は、掘り下げていくといろいろややこしいのだが、両者にある程度の関連性があることは否定できない。それゆえ、シュミットは1985年まで生きた(なんと享年96歳である)にもかかわらず、特に戦後の政治学の分野では、長きにわたり批判の対象となり続けてきた。

しかし面白いことに、近年、批判しつつもシュミットの思想に一定の意義を見出したり、あるいはシュミットとの対比において自身の思想が明確になってくるような、そうした独特のポジションを、シュミットが占めるようになってきたという。いわゆる「再評価」とは若干ニュアンスが違うけれども、いわばシュミットが政治思想のひとつの軸として立ちあがってきているらしいのだ。こうした状況を、著者は「シュミット・ルネッサンス」として着目する。

特に興味深いのが、著者も指摘するとおり、もっともシュミットを嫌悪しそうな左派知識人が、批判の対象としての位置づけであるにせよ、シュミットの思想を取り上げていることだ。もっとも、左翼の特徴のひとつはいわゆるラディカリズムにあることを考えると、ある意味きわめてラディカルであったシュミットの思想と左派の思想は、案外近いところにあるのかもしれない。

例えば、ハバーマスはシュミットの正戦論のアンチテーゼとして自身の正戦論を展開し、シャンタル・ムフは政治における「友ー敵」理論を自身の民主主義理論に組み込んだ。ネグリは「憲法制定権力」論をマルティチュード理論との関係で着目し、アガンベンは「例外状況における決断」によって法の外におかれる人々を「ホモ・サケル」として注目した(以上は本書4ページに基づく)。

本書は、シュミットの思想を「政治的なものの概念」「国家概念」「主権概念」「憲法制定権力論」「独裁概念」「戦争概念」「市民概念」「国民概念」に分けて論じている。シュミットの思想に対する批判はもとより、シュミット思想自体がたいへん分かりやすく整理されており、シュミットについての総合テキストのような仕立てになっている。

個人的に気になった箇所もたくさんあるのだが、全部書いているとキリがないので絞ると、まず戦争について。シュミットは「友ー敵」概念に基づく戦争を不可避なものとみる一方、それとは異なるものとして「正義の戦争」を強く批判した。正義(あるいは「人道」とか「平和」)を振りかざして行われる戦争は、得てして敵を非人間化し、その殲滅を目指すことにつながるからである。それは国家間の政治の延長としての戦争と異なり、際限なくエスカレートしてしまう傾向をもつ。

その例としてシュミットはアメリカのインディアン抹殺を挙げているが、私は東京大空襲や原爆投下、あるいはベトナム戦争イラク戦争を思い出した。これらすべてがアメリカの「仕業」であることは、偶然ではない。アメリカの戦争のやり方は、考えてみればすべてシュミットの批判した「正義の戦争」のパターンに見事にはまっているのだ。著者はこう指摘する。

「シュミットによれば、アメリカやイギリスの普遍主義は、経済と倫理にその根を有している。それは第一に経済的帝国主義という側面を有しており、自由貿易市場経済の論理を世界に持ち込むことによって、経済的に発展したアングロサクソンの支配を可能にする。第二にそれは、人権、平和、正義といった普遍主義イデオロギーを掲げることによって、他国の政治に介入し、敵を犯罪者に貶めようとするのである。経済的、倫理的な要求を掲げて他国の主権を侵害しようとするのが英米の帝国主義であった」(p.205)

すばらしく的確な英米批判である。シュミットが今も越えられていないと前に書いたが、こういう記述を読むとさらにその思いが深くなる。ただし、この議論を形式的に適用すると、いかなる蛮行や虐殺や人権侵害がどこかの国内で行われていても(ルワンダのジェノサイド、ポルポト政権下のカンボジア、中国のチベットウイグル政策等のように)、国際社会は何の手も打てないことになってしまう。そのへんが、ハバーマスなどによって批判されてしまうことになるのである。

また、シュミットの市民概念も興味深いものがあった。ここでは「ブルジョワ」と「シトワイヤン(市民)」の区別が重要となる。簡単に定義を書くと、前者が非政治的で私利を追求する自由主義的個人であるのに対し、後者は政治的責任を負う主体としての個人を言う。マルクスはもっと端的に、ブルジョワの権利を「人間と人間との結合に基づくものではなく、人間と人間との分離に基づく」と断じた。

シュミットがここで「市民」の側に立ったことは言うまでもない。彼はブルジョワを市民へと変革することを目指し、ブルジョワの「中立」と「脱政治化」は幻想にすぎないと考えた。しかし、ここでいう「市民」はあまりに国家従属的であり、ヘタをすると国民総動員体制に直結し、ブルジョワ的な自由主義を極度に抑圧することにつながる。この点では著者はシュミットに対して批判的である。この第7章は次のように結ばれている。「《ブルジョワ》を《市民》に変革しようとする試みの成功は、《参加》が《動員》の手段として利用されないためにも、非政治的で私的な領域に深く根ざしつつ、そこを媒介として公的領域に積極的にコミットしていく主体の形成にかかっていると言える」(p.250)※斜字は原文傍点

このあたりは、いわゆる「市民」概念を考えるときに外せない論点であろう。民主主義と自由主義の関係を考えるにあたっても、これは重要な視点になってくるように思われる。また、この議論に限ったことではないが、シュミットの思想は、実はルソーのものときわめてよく似ているらしい。ホッブズ的とはシュミットに対してよく言われることだが、フランス革命以来の近代市民主義の流れの中でシュミットを捉えることも、今後は必要になってくるだろう。

政治的なものの概念 カール・シュミットの挑戦 ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生 マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス) マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス) ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー) 社会契約論 (岩波文庫)