自治体職員の読書ノート

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【774冊目】吉村昭『羆嵐』

羆嵐 (新潮文庫)

羆嵐 (新潮文庫)

大正4年、冬。

北海道の山あいにある小さな村を、一匹の巨大な羆(ヒグマ)が襲った。本書は、わずか2日で6人の命が奪われたこの凄惨な事件を綴った迫真のドキュメントである。

都会に住んでいると、獣の怖さというものをえてして忘れてしまうが、この本を読むと、そのことをいやというほど思い知らされる。体長2.7メートル、体重383キロ、動きはおそろしく敏速で、顎の力は人間を骨ごと噛み砕く。そんな獣が冬眠の時期を逃して凶暴化し、夜陰にまぎれて人家を襲うのである。草葺の家はいざ知らず、板張りの壁も役には立たない。ある女性は頭蓋骨と片脚を残して骨まで喰われ、別の妊婦は胎児ごとむさぼり食われた。集団で狩り出そうにも、知恵の回る羆は多数の気配を嗅ぎつけて身を隠し、時には罠を張って背後から襲いかかる。自然の中にあって、人間がいかにか弱い存在であることか。そのことを、本書は事実の持つ圧倒的な迫力で突きつけてくる。

結局、羆を仕留めるのは一人の老練な猟師、銀四郎である。この銀四郎、酒癖が悪く人々の鼻つまみ者なのだが、実は一人山中に入って熊を狩るハンターで、その心中はおそろしく孤独。人界より自然に近い人間なのである。数を恃む警察はまったく役に立たず、この猟師一人が羆と対峙する。その姿は、非力な人間のせめてもの意地そのものであるように見える。

自然の描写の力強さと美しさ、人間の弱さに対するやや皮肉っぽいが温かい視線、そして何より、なかなか姿を現さない(スピルバーグの『ジョーズ』を思い出す)巨大な羆の、身震いするほどの恐ろしさ。家の中で犠牲者をむさぼり喰う羆が立てる、人間の骨を噛み砕く音が、読み終わっても頭を離れない。