自治体職員の読書ノート

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【731冊目】水村美苗『日本語が亡びるとき』

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

衝撃的なタイトルと、それ以上に衝撃的な内容で、いろんなところで話題になっていた一冊。日本語をめぐる論考のなかでも、いろいろ考えさせられる内容を含んでいた。

本書は、まず言葉を「普遍語」「現地語」「国語」に分ける。「普遍語」は、国境を越えて「知」が共有される言語であり、その性質上「書き言葉」として発展する場合が多い。典型的なのは中世ヨーロッパのラテン語や東洋における漢字(中国語)であろう。「現地語」はいわゆるフツーの言葉であり、日常生活でよくつかわれる。こちらは「話し言葉」がベースとなる。「国語」はちょっとややこしいのだが、現地語であった言葉が、翻訳を通じて普遍語とほぼ同等の知的水準を表す言語となったもの、だそうである。

日本語はどうかというと、もともとは「現地語」であり、書き言葉には普遍語である漢字を用い、読みに現地の言葉をあてはめるという状態であった。それが、明治になって西洋の概念を翻訳することで、事情が一変。「現地語」であった日本の言葉は、当時の「普遍語」であった英語、フランス語、ドイツ語を翻訳することで、西洋の概念を日本の言葉に取り込んだ。これによって、日本語は一躍「国語」として、翻訳を通じて普遍語なみの知的思考や表現に耐えうるものとなった。

一方、こうした日本語を用いて書かれたのが、いわゆる近代日本文学であった。もちろんそれまでも、源氏物語古今和歌集をはじめとしてさまざまなテキストが日本の言葉で著されてきたが(ただし、相当後の時代になるまで公文書や格式ばった文書は漢文であった)、なかで明治に書かれた文学が例外的だったのは、「西洋の衝撃」を受けた明治日本の現実を描きまくったことである。そして、日本語はそうした作業によって、普遍語の世界である西洋と現地語の世界である日本を架橋し、その間によこたわるジレンマや苦悩を描いた。国語としての日本語は、近代日本文学にその原型とエッセンスが込められているともいえる。

ところが、今や「英語」が普遍語として勢いを増し、世界中を席巻している。その中で、一度は現地語から国語の高みに達した日本語が再び「現地語」の地位に戻りつつあるのである。これに対抗するには、国語としての日本語の真価を、日本人ひとりひとりが自覚し、後世に伝えていくことが有効である、というのが著者の主張。そして、そのためには、国語としての日本語の原型であり、エッセンスである近代日本文学を後世に読み継いでいくことが有効である。

こう書くとずいぶん堅苦しい本のようだが、そして確かに扱われているテーマはとても重くて深いのだが、実はこの本はとても読みやすい。文章がきわめて明瞭でたとえ話に富み、しかも著者の主張が明快であるためだ。上に挙げたのは骨格のみだが、他にもいろいろ大事なことが書かれた本であり、「日本語なんてほっといても大丈夫だよ」と思われる方にこそ読んでいただきたい一冊である。