自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1972冊目】高野秀行・清水克行『世界の辺境とハードボイルド室町時代』

 

世界の辺境とハードボイルド室町時代

世界の辺境とハードボイルド室町時代

 

 

最初は、単に「ソマリランド室町時代が似てる!」というネタを広げただけの一冊かと思っていた。だが、読んでみると、とんでもない誤解であった。

この対談から見えてくるのは、「どこかの変わった国と、日本のどこかの時代が似てますよ~」「それほど、どこかの変わった国は遅れてますよ~」ということでは、ない。むしろ悟るべきは、そっちのほうが「世界史的なスタンダード」なのだ、ということだ。現代の日本のような国家や社会のほうが、実は世界史的にはイレギュラーなのである。

例えばアフリカなら、市場で泥棒が捕まると、犯人を殺しかねないほどのリンチがはじまる。警察も、無理に止めると自分の身が危険なので、収まるまで待っているという。もちろん、国レベルではこんなことは違法である。だが、地域社会レベルでの法慣習ではリンチが「適法」なのだ。日本の中世でも、庶民の間では「盗みの現行犯は殺していい」というルールがあった。

これって、要するにダブルスタンダードである。国家の法制度と、慣習レベルの法制度が併存している。そして、実質的に威力を発揮するのは民衆レベルの法なのだ。なぜかといえば、理由は簡単。国家なんて、要するに信頼されていないのだ。地域社会のもめごとは地域社会で解決するのであって、そこには独自の論理が貫徹しているのである。

日本みたいに「国は何やってるんだ」とすぐ目を吊り上げる人は、たぶんソマリランド室町時代にはいないだろう。むしろ、国家なんて民衆を締め上げるようなことしかしないのであって、だったらヘタに関与していない方がよい。だから海外ではNGO(非政府組織)が盛んなのである。日本では、政府の認証を得ているNPOなら信頼されるが、NGOというと「国に楯突く」みたいに見られるのか、いまひとつ信用されない。

「世界のスタンダード」から日本が外れたのは、江戸時代に入ってからだという。例えば、中世ではお寺は「アジール」(避難所)になっており、そこには公権力の力は及ばなかった。だが、戦国時代から江戸時代にかけて統制が強まり、江戸時代には公式な駆け込み寺は2箇所だけだった。現代では、お寺に犯罪者が逃げ込んだら警察は踏み込めない、なんて考えられない。

こうしたアジールは、今でも一部の国では健在だ。タイでは、お寺に警察が入れないから、お寺の中で麻薬取引が行われているという。お隣の韓国でさえ、逮捕状を出された労働組合員が寺に逃げ込み、警察との話し合いが持たれた。面白いことに、警察は牧師を間に立て、組合員側はお坊さんを代理にして「四者会談」が行われたという。

もちろん、これはどちらが良いかという話ではない。日本のようなお上意識が強く国家依存性の国民のほうが世界全体から見ればイレギュラーな存在だと自覚しておけばよい。ただ、それまで日本でもある程度機能していた地域社会がどんどん崩壊していること、それによっていろいろな弊害が生まれていることは意識しておいたほうがよい。

例えば清水氏は、室町時代は殺伐としていたといわれるが、現代の都市の方が危ないのではないかと指摘する。地域社会の慣習法の世界では、先ほどのリンチの例ではないが、暴力というものの恐ろしさが知られており、それゆえ、最後の段階にならなければ手を出すことはなかった。だが、東京のような現代の都市では、暴力の怖さを知らない人が脈絡なく暴力を振るう。そのほうがよほど恐ろしい。

独裁者は平和を好む、というのも興味深い指摘であった。例えば徳川政権は、完全な軍事政権であり、現代でいえばミャンマーの軍事政権のようなものだという(対談時点の話)。だが、その軍事政権が、300年近くに及ぶ平和な時代を築いたのである。確かにそう考えると、内実はともかく、軍事政権であるというだけで抑圧的で好戦的、と考えるのはおかしいのかもしれない。

むしろ、思うに、民主主義のほうがよっぽど危ないのではないだろうか。ミャンマーは大丈夫かしらん。それに、「戦争反対」と「民主主義」を安易に結びつける発想も、ここらでちょっと考え直した方がよいかもしれない。ナチスだって安倍政権だって、民主主義から生まれてきたんですからね。