【2232冊目】田中拓道『福祉政治史』
「日本の問題点は、行きすぎた新自由主義的改革によって富裕層と貧困層への二極化が生じたということではなく、失業・低所得層への行きすぎた保護や再分配が行われているということでもない。他国に比べて水準の低い公的福祉が維持されたまま、「インサイダー/アウトサイダーの分断」が顕在化し、それへの実質的な対応が進んでこなかった、という点にある」(p.272)
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スウェーデン、日本。6か国の福祉をめぐる政策と政治の変遷をたどり、日本の未来に向けた提言を行う一冊。
戦後の先進国6か国は、それぞれに異なる事情を抱えてはいたものの、そこには共通する時代的な背景がある。著者によればそれは「ブレトンウッズ体制」と「フォーディズム」であるという。特にフォーディズムに代表される大量生産社会は、男性優位の雇用環境を生み出し、熟練労働者からなる労働組合と使用者による労使協調がなされた。
ところが時代が変わり、先進国は生産拠点を途上国に移行、自国内の主産業はサービス業や小売業、福祉・医療関係が主流になっていった。そんな中、各国はそれまでの福祉制度を大きく見直していく。また、少子高齢化も各国で進行したが、これも従来の福祉システムに大きな変更を迫るものであった。
こうした変化に各国がどう対応したか、そして日本はどこで「失敗」したのかを検証したのが本書である。具体的には、日本は公的福祉の比重が低く、その分を担ってきたのが、所属する企業の福利厚生であった。戦後の日本人は、中心となる「男性稼ぎ手」が正社員となって企業に所属し、妻は専業主婦となって家事や育児に専念し(ここで家庭もまた、子育てや介護などの機能を担うことになる)、企業がほぼ丸抱えでその面倒を見たのであった。政権与党の自民党は、そこからこぼれていく自営業者や中小零細企業、農家などに特化して、手厚い保護を行えばよかった。
ところがこのモデルは、先ほど挙げたフォーディズムの解体によって事実上時代遅れのものになっていった。製造業から小売・サービス・ケア産業が国の産業の中心となり、これらは労働集約型の、いわば「女性向け」の仕事である。普通に考えれば、ここで「男性稼ぎ手中心モデル」から「夫婦共稼ぎモデル」への移行を想定し、それに見合った社会保障制度を構築する、というのが政治の発想というものだろう。事実、多くの国ではそのような政策のシフトチェンジが行われた。取り残されたのは、そう、日本である。
まあ、これくらいにしておこう。他国の政策だってカンペキではないし、人口規模や社会、文化が異なるのだから、同じ政策を採用すればよいというものでもない。だが、とにかくこれほどまでに財政赤字が積み上がり、これほどまでに少子化が進行し、これほどまでに所得再分配に失敗したのは、先進国では日本だけなのだ(個人的には、そもそも日本が「先進国」なのかどうか、最近は疑問に思っている)。本書の210ページには驚くべき表が載っている。年齢別に、再分配後の所得のジニ係数(所得格差を表す係数)を調べ、1979年から10年ごとに並べたものなのだが、1979年から2009年までの30年間で、65歳以上の高齢者のジニ係数は減っている(つまり所得格差が解消しつつある)。一方、39歳未満のジニ係数は、同じ30年間で増えているのである。これはいったい、どういうことか。
「全般的に福祉が縮減されているのではなく、中高年層は相対的に保護されている。(略)若年層や女性といった再生産を担う層のあいだに格差が広がることで、少子化にも歯止めがかからなくなった」(p.210)
最後に、ちょっと気になったことを1つ。著者はリバタニアリズムを権威主義との対立軸として取り上げ「物質的な安定よりも政治参加、ジェンダー平等、ライフスタイルの自己決定、エコロジーなどを重視する考え方」(p.124)としている。だが、リバタニアリズムを事典で調べると、こんなふうに書いてあるのである。
「福祉国家のはらむ集産主義的傾向(→コレクティビズム)に強い警戒を示し,国家の干渉に対して個人の不可侵の権利を擁護する政治思想」(ブリタニカ国際大百科事典)
決定的に矛盾しているわけではないが・・・・・・むしろ著者のいうリバタニアリズムは、リベラリズムなのではないかという気がする。ちなみに「リベラリズムが政府による自由市場への介入と所得の再配分を推進し、社会的平等を重視する福祉国家の制度的基礎を提供したのに対し、1970年代以降の米国において、個人権的自由権を絶対的に擁護する立場から、国家の権力と機能を制限し、「最小国家」の創設を求める思想としてリバタリアニズムが登場してきた」(知恵蔵)とのことで、国家の干渉を最小化するのがリバタニアリズム。となると、著者のいう「政治参加」「エコロジー」などは、最小国家論とは矛盾しないのだろうか?