【1902冊目】酒井順子『本が多すぎる』
書評というほどかしこまっていない。もっとカジュアルな、そう、読書エッセイ、という表現がぴったりな一冊だ。
週刊文春の連載がもとになっているらしい。1回につき3冊を取り上げ、関係がありそうななさそうな3冊を、酒井順子という読み手を媒介することでつないでいく。そのゆるやかなつなぎ方が絶妙だ。
『東京駅はこうして誕生した』『山の上ホテル物語』『迷子の自由』が旅や移動という点でつながる、というようなわかりやすいつながり方もあれば、『米朝怪談』『漂白される社会』『ミラノの太陽、シチリアの月』という、やや意外な組み合わせもある。
ちなみに後者は「落語」「現代社会」「イタリアの暮らし」という組み合わせでもあるのだが(これでもよくわからない)、この3つ、実は「落語」というジョイントでつながっているのだ。『漂白される社会』に描かれている、現代社会において「あってはならぬもの」として見て見ぬふりをされている「社会の端っこ」を、笑い飛ばしつつ包摂する知恵をもっていたのが落語であり、一方イタリアの暮らしでは、その旅や長屋めいた住まいについて、著者は「落語の人情話のよう」と言う。言い換えれば、落語というスコープをもってくることで、他の2冊が思いがけない見え方をしてくるのである。
こういう「3冊読み」は面白い。一冊だけ読んでいるのでは味わえない世界である。この「読書ノート」でも以前、3冊ずつの紹介をしたことがあるが、あれは同じ著者、同じテーマを並べただけで、本書のような、本が本に対して化学反応を起こすような読み方とは根本的に違うのである。
そして、大事なのはその「化学反応」の触媒となっているのが、酒井順子という「読み手」の存在である、ということだ。言うまでもなく、本そのものは一冊ずつバラバラに存在する。それを「読む」ことでつないでいくのは、読み手の側の役割なのである。本書は、そんなことを思い出させてくれた一冊であった。