自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1832冊目】青木人志『「大岡裁き」の法意識』

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

タイトルからは、江戸時代の人々の法に対する意識を論じた本かと思ったが、読んでみたらさにあらず。むしろ明治維新以降の、西洋法の「輸入」に対する日本人の反応と変化を扱った一冊であった。

そもそも、明治期の法整備は急ピッチで行われた。その状況は、本書で引用されている三ヶ月章氏の「法自体にとって何が必要であるかという角度からの緩急順序よりも、何が法治国的外形を作り出すのに手っ取り早いのか、ひいて、条約改正という政治目的に有効に作用するのは何か、という観点こそが、前面に押し出された」という言葉にすべて言い表されている。ちなみにこの「条約」とは、言うまでもなく、外国人への治外法権制度を含む不平等条約だ。

つまりあけすけに言ってしまうと、明治期の法整備のターゲットは国民ではなく、外国人が西洋法的なロジックとシステムに基づいて裁判が受けられることであったのだ。だから日本のこれまでの思想とはだいぶ違った法思想が生煮えのまま直輸入され、結果として、国民の法意識と大幅にかけ離れた法制度が整備・施行されることとなった。

この状況を「日本人の法意識」という観点で論じたのが、野田良之と川島武宜であった。前者は日本人の民族性やメンタリティに基づく「日本人の法嫌い」を主張し、後者は日本人の権利意識や契約・所有権への法意識が薄弱であるとしつつ、日本の近代化の中でそれらが形成され、成長しつつあると考えた。もっともこうした議論には幾多の厳しい批判がなされ、著者も「その当否を議論する段階をとうに過ぎている」とバッサリ切り捨てている(p.188)。

一方、こないだ紹介した大木雅夫氏の批判(日本人の権利意識はむしろ高いほうであり、司法制度の脆弱性に問題がある)についても、著者は一定程度の理解は示しつつ、そもそも「権利意識」の中身について検討する必要があると指摘する。そもそも「正義」「法」「権利」が同じright(Recht)で綴られる欧米の「権利」と、日本で用いられている「権利」は意味が違うのではないか、というのである。

この批判はちょっと面白く、この点だけでももう少し考えてみたいところなのだが、いずれにせよ、西洋法がかなり強引かつ性急に日本に導入されたことは確かであり、日本人がそれにどう対応してきたかという問題は、やはりしっかり考えておくべきであるように思われる。著者はこれを「洋服と身体」の関係になぞらえている。

実は、本書は冒頭で穂積陳重の「服装」に着目して、和装から洋装への急激な変化に日本の変化を重ねて考察しているのだが、その意味が以下のくだりを読んでやっと理解できた。著者はこんなふうに書いているのである。

「明治時代に継受された西洋法の体系も、日本社会にしてみれば、いわば突然身にまとうことになった洋服のようなものである。日本の社会、いや世間(略)という「肉体」に、西洋流自己責任の体系の衣類を隅々までフィットさせることは、一朝一夕で可能なことではない」(p.197)


この例えはよく出来ていると思うのだが、気になったのはこの後だ。著者は「個人が集団のくびきから解放されるということは、それ自体、喜びに溢れたものであるはずだ」「「自分は自分であって自由である」ということを喜び享受できるような社会と人生観を形成するべき」と、ほとんど手放しで西洋法の背後にある価値観・人間観を承認し、日本人に対しても「わたしたちは、過去に積み残した課題を清算するために、西洋法の古典的な自己責任・自己功績の原理が「血肉」になるような社会を作る努力をつづける一方で、このさきの未来を見越して、グローバル時代にふさわしい普遍性の高い法と制度はどのようなものか、そして、その創造の担い手としてのわれわれは、日本法文化をどう育ててゆくべきかを考えてゆかなければならない」(p.210)と言うのである。

このくだりはいささか承服しがたいものがある。だいたい、「西洋法の古典的な自己責任・自己功績の原理が「血肉」になるような社会」というのは、いったいどういう意味であろうか。西洋法を(急ごしらえで)導入してしまったから、われわれはそれに合わせて、西洋法の背後にある思想や価値観まで丸呑みで身につけなければならないということなのだろうか。

だいたい、西洋の価値観にしろ思想にしろ、キリスト教という宗教の圧倒的な影響に加え、何度にもわたる市民革命、ファシズムとの闘いを経てようやく獲得したものであるはずだ。それを「血肉」にするなどと、簡単に言ってしまってよいのだろうか。そもそも、西欧式の理念と思想を、制度ごと国民に植え付けるようなことが、はたして可能なものなのか。「木に竹を接ぐ」とは、まさにこのことではなかろうか。

もちろん、だからといって江戸時代の法意識に戻れと言うつもりはない。「ねじれ」「ずれ」はすでに生じてしまったのだ。それは今さらなかったことにはできない、それこそ日本独自の状況であり、日本がその歴史を通じて抱え込んでしまった大難問である。

むしろわれわれは、その矛盾とあつれきを「抱える」しかないと思うのだ。簡単に答えを出してしまってよい問題ではない。答えが得られない状況で、いわば「中腰」のまま耐えることこそが、むしろ現代の日本人には求められているように、私などは思うのだが……。

新書一冊の中で何とかケリをつけようとしたのかもしれないが、このくだりに関しては、いささか著者は結論を急ぎ過ぎているように思われるのだが、どうだろうか。このあたりは本書の一番の「キモ」であり、それだけに、安直とも思える結論は惜しいと感じた。