【1765冊目】中島岳志『血盟団事件』
- 作者: 中島岳志
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2013/08/07
- メディア: 単行本
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「事件の背景には、経済的不況による庶民の生活苦があった。大洗の青年たちは、農村社会の疲弊に直面し、苛立ちを募らせた。仕事を求めて東京に出ると、そこでも下町の苦境に直面した。
一方、巷ではエロ・グロがブームとなり、繁華街ではカフェ遊びが流行していた。そこでは地方から売られてきた女性たちが、小金を持った男たちの欲望の対象となっていた。格差社会は拡大し、弱き者は困窮から抜け出せなかった。
しかし、政治は無策だった。既成政党は互いに足を引っ張り合うばかりで、有効な政策を打ち出せなかった。さらに、汚職事件が次々に発覚し、政治不信は頂点に達した。
一部の特権階級は、相変わらず優雅な生活を送っていた。財閥は資本を独占し、庶民との格差は広がりつづけた。人々は既得権益に対する不満を高め、救世主を待望するようになった」(p.387)
のっけから長文の引用で恐縮だが、細かい部分(エロ・グロとか財閥とか)を少し変えれば、ほとんど現代の世相を書いた文章として通用しそうなところが恐ろしい。そもそも著者が、戦前に起きたこの事件を取り上げたのは、事件の背景にある事情が、現代の政治状況や社会情勢と気味が悪いほど似通っているからだ。上の引用は本書のほとんど結論部分からだが、その序章では、著者はこんなふうに書いている。
「いま、血盟団事件に遡行することは、閉塞状況の中にある現代日本を捉え直す重要な手掛かりになると、私は考えている。血盟団事件を起こした若者たちを内在的に捉え直すことを通じて、現代の問題の糸口をつかむことができるのではないかと思っている」(p.15)
だから、例えば前に著者の『秋葉原事件』という本をここで取り上げたが、本書とこの本は、まったく違っているようで、実はどこか通底するものをもっている。もっとも、血盟団事件から連想してしまうのは、むしろオウム真理教の一連の事件なのだが。
というのも、この事件が同時期に起きた五・一五事件や二・二六事件と大きく異なるのは、宗教的側面が深くからんでいる点だ。この事件の異様な特質は、仏教、とりわけ日蓮宗がナショナリズムと融合したところにある。個人の救済と日本の救済を奇怪なかたちでつなげた一種独特のスピリチュアリズムが、そこにはあった。
だからこそ、荒木陸相の誕生によって陸軍がクーデタから離れる中、孤立を深めた血盟団を後押ししたのも、宗教的信念だった。このあたりもまた、オウムとどこか似ている。選挙に惨敗し、社会的孤立を深め、その結果、彼らもとんでもないテロリズムに走った。
「最早、テロ後に陸軍が動くかどうかは問題ではない。テロ後の政権がいかなるものになるかなど、考える必要はない。政権構想を抱くと、それが我欲に直結する。自分のポジションや利害関係がせり出してしまう。どうしても計らいが顔を出す。自分たちが捨てなければならないのは、我欲そのものである。徹底した自己犠牲の精神によって突破口を開き、あとは天意に任せる。それしかない。ただ命を投げ出すしかない。それが求道者の道であり、大乗的精神である。宇宙と一体化する信仰者の歩みである」(p.336)
もちろん、このような宗教テロリズムによる暗殺事件が起きたのには、いくつもの要因が重なっている。中でももっとも大きいのは、井上日召という稀有の宗教的カリスマの存在だ。本書は井上自身の若き日々に1章をあてているが、そのキャラクターの強烈さは圧倒的だ。小沼や菱沼といった大洗の農村の若者と、四元や久木田ら東京帝大の知的エリートという異色のグループを束ねることができたのも、井上というリーダーの存在感によるところが大きい。
その井上の「方法論」として有名なのが「一人一殺」というテロリズムだが、意外なことに、井上は最初から「一人一殺」という方法を構想していたわけではなかったという。むしろ井上自身は、当初は「自己革命」を説き、宗教的修養と啓蒙活動によって世の中を変えていく方向で考えていたらしい。そこを大きく「暴力革命」に動かしたのは、藤井斉という海軍の青年将校だった。最初は藤井の考えを厳しく罵倒した井上も、徐々に気持ちが揺らぎ、藤井の主張に押し切られるように暴力革命へと傾斜していったという。
その意味で、この事件の本当の黒幕は藤井で、井上は藤井に動かされたというべきかもしれない。もっとも、皮肉なことに、藤井自身はその後出征し、他のメンバーが暗殺の準備に入っている頃に上海で戦死したため、暗殺行動にはまったく関わらなかったのだが。
本書は実に読み応えのある一冊だった。冒頭はなんと事件の唯一の生き残り、99歳の川崎長光のインタビューだ。「西田税は裏切り者だから殺ってくれって言われているからね。その通りやらなければと思って」という最初の一言が、いきなりズシリと重い。
さらに井上日召の半生記があり、そしてテロの中核メンバーとなった人々がいかに井上に感化され、暴力革命に突き進んでいったかが克明に描かれる。純粋で正義感の強い若者であったがゆえに、いかに彼らが井上に惹かれ、そして「一人一殺」へと導かれていったか。
その心情に寄り添う意味は、冒頭に書いたとおりだ。現代に第二の井上日召が現れない保証は、どこにもないのである。当時と現代が違っているのは「すでにわれわれが血盟団事件を知っているかどうか」という、この一点に過ぎないのだ。