自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1726冊目】モスタファ・エル=アバディ『古代アレクサンドリア図書館』

古代アレクサンドリア図書館―よみがえる知の宝庫 (中公新書)

古代アレクサンドリア図書館―よみがえる知の宝庫 (中公新書)

図書館本19冊目。

図書館の歴史を辿る中で、アレクサンドリアは外せない。

厳密には「最古の図書館」ではないが、その規模や思想において、後世の図書館が常に仰ぎ見る存在であり続けたという意味では、図書館の原点だ。アレクサンドリアという場所が、ヨーロッパ、アジア、アフリカが交錯し、「多くの外国人を受け入れることと少なからぬ自国民を外国へ留学させて勉強させること」(p.139)共存する都市であったことも大きいだろう。まさにそこは、コスモポリタニズムの原点でもあった。

このような都市が出現したのは、なんといってもかのアレクサンダー(アレクサンドロス)大王あってこそだった。西はギリシアから東はマウリア朝インドの西部まで版図をひろげたアレクサンダーは、アリストテレスに教えを受けたたいへんな読書家であり、旺盛な探究心と実証精神の持ち主でもあった。

そんなアレクサンダーが建てた最大の都市がナイル河口のアレクサンドリアだ。もっとも、そこに図書館とムーゼイオン(ムセイオン)ができたのはアレクサンダーの死後、エジプト地域を支配したプトレマイオス朝の下であったのだが。

「ムーゼイオンという名の、大総合図書館を付置した一大研究センター」(p.69)を設置すべしとの案をプトレマイオス一世ソーテールに示したのは、かつてアテナイの僭主であり、そこからエジプトへ亡命したディミトリウスという人物だったらしい。このディミトリウスは政治家であると同時に博識と多才で鳴る多産な作家であり、ギリシアの逍遥学派に属していた。ということは、やはりギリシア文化の影響がアレクサンドリア図書館には大きく及んでいたということになる。

こうした経緯のもとに、この時代に「健全な基盤の上に学術研究を推進する正しい道がアレクサンドリアに確立された」(p.97)のは、やはりある種の奇跡であったように思われる。君主たちは、こうした学術的な研究を保護し、それによって言語学や文学、自然科学などがじっくりと研究され、発展することができた。ギリシアの知とメソポタミア文明以来のアジアの知が融合したことも大きかっただろう。

ちょっと意外だったのは、原典批評というスタイルがここで確立したということだ。同一作品のさまざまな写本が一堂に集められたことで、こうした方法が可能になった。もっとも、ホメロスの『イリアッド』の中のある単語の読み方の論争などと聞くと、なんだか瑣末でつまらない議論にしか思えないかもしれない。だが、こうした学問的伝統が後に聖書研究に影響し、ひいては神学の基礎となったのだから、こうした動きもなかなかにあなどれないのである。

後世に多大な影響を与えたこの大図書館も、しかしその後、ほとんど跡形も無いまでに焼失することになる。カエサルアレクサンドリア戦役で港に停泊する敵艦船に火をかけたため、との説が有力だが、いろいろと異説もあるらしい。

いずれにせよ、当時最大の「知の殿堂」は失われてしまった。だが考えてみれば、謎の中で失われてしまったからこそ、アレクサンドリア図書館は理想の学問センターとして、その後のイスラーム社会、そしてルネサンス期のヨーロッパを照らしつづけたのかもしれない。その系譜はめぐりめぐって、現代の図書館にも続いているのである。