自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1672冊目】大崎善生『赦す人』

赦す人

赦す人

今夜が、年内最後の更新になります。この「読書ノート」をお読みいただいたすべての方に感謝。来年もよき一年でありますように。

さて、2013年ラストの一冊は、なんとかのSM作家、団鬼六の評伝だ。著者は大崎善生。この人の書いたものは、今まで小説『パイロットフィッシュ』しか読んだことがなく、純愛青春小説の作家というイメージが強かったので、団鬼六の評伝を書いたと知った時には、ちょっとイメージが結びつかなくて戸惑った。

だが、読んでみるとこれが、実に味わい深くて、良いのである。ただの評伝ではない。なんといっても、鬼六自身が著者と一緒に、出生地の彦根市にはじまり学生時代を過ごした大阪、さらには三崎や真鶴など、鬼六の人生の軌跡を共に巡り、直接案内しているのだ。しかもその時の鬼六のリアルタイムな語りをオーバーラップさせながら当時の様子を描き出しているので、まるで鬼六自身の昔語りを聞いているような気分になってくる。

さらに独特なのは、著者自身の半生記がそこに混ざり込んでいくこと。作家になりたかったが書けずに将棋の世界に転がり込み、そこで団と出会う(団は無類の将棋愛好家で、廃刊寸前の将棋専門誌を買い取っているほど)。二人の接点は将棋だったのだ。しかもそこで対局のリポートをするはずが、二人して昼間から飲み始めてしまい、結局二人ともそのまま夜まで飲み歩いてしまい、対局場には戻らなかったという。

そんな著者の描く団鬼六は、無頼を絵に描いたような破天荒な人物で、しかも途方もなくやさしく、あたたかい。「赦す人」とはよく言ったものである。面倒見がよく、気前がよくて、人が困っていると放っておけない。それで新橋のつぶれかけた酒場を買い取ったり、将棋雑誌を引き取ったりして、結局自分が損ばかりしている。もっともこれは鬼六の「事業好き」という面もあるのだろう。とにかくじっと小説や脚本ばかりおとなしく書いていられない性分なのである。

そういう性格だから、SMの世界でも映画プロダクションを立ち上げたり、伝説の雑誌「SMキング」を取り仕切ったりしていた。だが案の定、事業家には到底向いていなかった。冷酷になり切れず、計算に徹することができない。「損切り」ができないのだ。だから商売としては失敗ばかりであった。

もっとも、鬼六自身、そういう意味での商業的な成功より、食い詰めた連中の面倒をみて、みんなで飲み歩いてどんちゃん騒ぎをする中にいるほうが大事で、むしろそういう「場」を作るために事業をやっていたフシさえある。今日のケチくさい「経営者」などとは人間の器が違うのである。

そういう鬼六だから交友関係も広く、深い。コメディアンのたこ八郎との密接な関係は特に印象深く、鬼六の途方もない包容力を感じる。将棋の「真剣師小池重明もそうだが、鬼六はどうも世間一般でいう「ダメ人間」「どうしようもないヤツ」ほど、一喜一憂しながらもそのすべてを引き受け、一緒に破滅の淵を覗こうとするようなところがある。著者は鬼六の人づきあいのありようを、次のように書いている。

「どんな人をも決してみくびらない。常に観察し深く洞察する。いわゆる悪人も善人もなく、すべては自分の価値観の中で決める。決して自分からは別れない(借金取り以外は)。楽しく付き合い、酒を飲み、ともに遊ぶ。そしてほとんどのことを赦す」(p.179)


こんな人物がSM映画、SM小説というのはちょっと意外な感じがあるが、それはSMの門外漢である私の偏見かもしれない。あるいは「言行一致」を徹したマルキ・ド・サド(彼は実際にSM行為で投獄された)の印象が強すぎるのかも。むしろ著者によれば、鬼六のSMは人間愛の変形なのだという。

「鬼六はおそらくこう考えている。脆く壊れやすい人間と人間を結び付けているものこそが性行為なのではないだろうかと。鬼六にとって性行為を描くことは人間と人間のつながりを描くこと、あるいはそれを求めることに他ならなかった。だからこそ、それをより深く、より切実に、書きとめようとした。それは自分が自分であることの、そして人が人であることの本質的な出発点であった。鬼六にとって、いくら観察しても考察しても興味がつきない人間という愚かでそして愛おしい生き物、それをより際立たせずにおかないのは、生殖以外を目的とした性行為という行いだった」(p.274)


本書に描きだされていく鬼六は、重層的で多面的だ。著者は、油絵の重ね塗りのように、無頼の上にやさしさを、逸脱の上に弱さを重ね、そしてその底深い矛盾に徹底して身を寄せていく。その意味で本書は、いわゆる「客観的な」評伝というより、むしろ著者の、団鬼六に対する長文のラブレターであろう。著者は自身の主観を語る中で、団鬼六という人物が自分に示してくれたこと、語ってくれたことを、虚実のいっさいとともに呑み込んで、著者にしか描き出せない「団鬼六像」を浮き上がらせてみせたのだ。

本書のラスト近く、死期が近づきつつある鬼六と著者のやり取りは、涙なくして読めないものになっている。こんなに切ない評伝というのも珍しい。読み終わって、むしょうに団鬼六の書いたものが読みたくなった。SM小説の白眉『花と蛇』はもちろん、既読だが、晩年の転機となった『真剣師小池重明』も読みなおしたいし、復讐の一作という『不貞の季節』も、自伝エッセイ『死んでたまるか』も読んでみたい。そうそう、著者のもうひとつの評伝の傑作と言われる『聖の青春』も、ずっと気になっているのに読めていない。読まねば。

花と蛇1 誘拐の巻 (幻冬舎アウトロー文庫) 真剣師小池重明 (幻冬舎アウトロー文庫) 不貞の季節 (文春文庫) 死んでたまるか 自伝エッセイ 聖の青春 (講談社文庫) パイロットフィッシュ (角川文庫)