【1491冊目】松岡正剛『遊学』
- 作者: 松岡正剛
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2003/09
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もうずいぶん前のことになってしまったが、「松丸本舗」閉店の日、最後に何を買おうか迷ったあげく、『松丸本舗主義』と共に本書をレジに持って行った。ピタゴラスからマンディアルグまで、古今東西の人物から142人を選び抜いて綴った本だ。一晩に一人ずつ、読むたびにあの棚組を思い出した。そして、松丸本舗の本の並びに息づいていた「知脈」というものの原型が、30年前に書かれた本書ですでにカタチをなしていたことに、心底びっくりした。
本書は単なる人物紹介の本ではない。著者とその人物との交錯や同時代の動向、そこに至った経緯からそこから生まれ出たものの行方までが自在に書かれた一冊(二冊)だ。その背景に見えてくるのは、著者自身が当時どんなことを考えていたか、ということ。それは具体的には次の三点だったという。
「第一には、思想や科学や芸術はどのようにつくられてきたのかということを、発生現場を覗くようにして考えてみたかったということ、第二には、そうした発生やそのあとの変遷を、時代や領域をあえてまたぎながら描くとどうなるかという試みを文中にあらわしてみたかったということ、第三に、私がそこに息せききって駆けつけたときの最初の興奮を、なんとか当時の呼吸のままに綴ってみようということ」(p.368)
こうした発想であるから、一人の人物ごとに書かれているわりに、めっぽう風通しが良い。その人の紹介に閉じていないのだ。そして、これは知というもののあり方そのものに深く通じるところがあるように思う。
知は決して閉じたものではないこと、文系と理系、東洋と西洋といった「区分け」を超えたところに知の往還はあること、さらにはそれを読む「わたし」の構えや感覚や感情が知そのもの、世界そのものと実は結びつき、共鳴し合うものであるということが、本書を読むと感じ取れる。知とは孤立したものではなく、時空を超えて縦横ナナメにつながっているものなのだ。
そのへんの姿勢というか知への「構え」は、その後の著者の前人未到の偉業「松岡正剛の千夜千冊」にもつながるものであろう。だいたい、「千夜千冊」は本単位だが「一著者一冊」であって、当該著者のことが相当踏み込んで書かれていることを思えば、まさに本書こそがあの千夜千冊の原型であり、ルーツなのだろう。取り上げられている人物や内容も重複がかなりあるので、「千夜千冊ファン」である私にとってはこたえられない読書になった。
ちなみに本書の元になったのは雑誌『遊』の特別企画であるが、そこでは本書の元原稿である「体験編」に加えて、スタッフが書いた「解説編」があったという。単行本化にあたって解説編から取り入れられた部分もあるようだが、その人物に関する基礎データはほとんどないため、まったく知らない人物について書かれたパートは少々読んでいてツライものがある(それでも読んでいるうちにその人がどんな業績と特質をもっているかは分かってくるが)。
一方、知っている人物について書かれたパートのほうは、そうはいっても全然知らなかったその人のエピソードがたいてい紹介され、しかもそれがその人物を理解する大きなカギとなっていたりして、知っているつもりで全然知らなかったことを思い知らされる。私の場合でいうと、たとえば芥川龍之介の作品を彼の死から逆照射するようなアプローチはけっこう衝撃的だったし、レオナルド・ダ・ヴィンチ(さらにはルネサンス全体)を男色感覚から捉え直しているのにもびっくりした。
なお本書は、目次のヘッドラインをみているだけでけっこう楽しめる。さっきのダ・ヴィンチは「禿鷹ロボットの男色」だし、『ガリバー旅行記』のジョナサン・スウィフトは「頭に水がたまる反哲学」、ゲーデルが「数学的遁走曲」で、ランボオが「ハイエナの錯乱」、ヴィトゲンシュタインが「凧アゲハに遊ぶ」なのだ。どんな中身か気になるでしょ? ちなみにボルヘスは「自分の尾をかじる文学」、マッハが「物質の記憶、機械の告白」で、ショーペンハウアーが「感電する世界意志」なのだ。う〜ん、うまい。
では、問題。「伝記王から電気王へ」は誰だか、わかりますか?(→エジソン) では、「因果交流電燈企画会議」は?(→宮沢賢治)