自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

【269冊目】吉野せい「洟をたらした神」

洟をたらした神 (文春文庫 (341‐1))

洟をたらした神 (文春文庫 (341‐1))

表題作「洟をたらした神」を含む16篇の自伝的短編小説集。大正時代から戦後にかけて、自らが半生を送った農村での生活を描いている。

農村や農民を描いた小説はいろいろあるが、吉野せいのものはそのどれとも全然違う。吉野せいの文章はまさかりでばっさりと刈り込むような大胆さと力強さをもっており、一見粗雑にさえ見えるのだが、同時にちょっとした自然の美しさや人情の機微などを、実に細かく丁寧にすくいあげて描写する繊細さを併せ持っている。もちろんそこには天性の才能もあるのだろうが、何より違うのは、他の作家が外から農村の生活を観察して小説化しているのに対して、吉野せいの小説は農民としての体験にしっかりと根を張って、いわば農村の内側から書かれているところであろう。

本書に描かれている農民の生活は、一貫して貧しい。その貧困が吉野せいのひとつのテーマとなっている。「洟をたらした神」では、6歳になる息子のノボルは一度も玩具を買ってもらったことがなく、ただ一度ねだったヨーヨー代の2銭さえ親は出せない。それに忸怩たる思いを抱く親がいる一方、ノボルは器用に木を削って自分でヨーヨーを作ってしまう。その姿に親は「神」を見たのであろうか。また、「梨花」という短編は、生後わずか半年程度で生涯を閉じた娘の「梨花」の、体調を崩し、貧しさから医者を呼ぶことさえ躊躇しているうちに徐々に衰弱し、そのまま最期を迎えるまでの過程を、娘を失おうとする親の慟哭の筆致で綴っている。なおこの「梨花」、おそらくは野坂昭如の「火垂るの墓」に匹敵する「泣ける小説」。ハンカチ必携。

他にも、戦争の暗い影や出征した息子への想いを綴ったもの等もあり、戦争が農村の貧しさにさらに拍車をかけていたことがうかがえる。そして、驚くべきはこれらの小説が書かれたのが、吉野せいが70歳になってからの数年であるということ。まさに自らの苦難に満ちた人生を渾身の力で描き切った傑作短編集である。