自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2226冊目】原田マハ『楽園のカンヴァス』

 

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

 

 

「生真面目な人物像も、不思議なかたちのエッフェル塔や飛行機も。草いきれのする密林も、沈みゆく真っ赤な夕日も。ライオンも、猿も、水鳥も。横笛を吹く黒い肌の女も、長い髪の裸婦も。
 画家の目が、この世の生きとし生けるもの、自然の神秘と人の営みの奇跡をみつめ続けたからこそ、あんなにもすなおで美しい生命や風景の数々が、画布の上に描かれ得たのだ。唯一無二の楽園として」

 



この本は面白かった。アートの世界を舞台に、これほどスリリングでミステリアスで、しかもロマンティックな物語が読めるとは。

舞台は1983年のスイス、バーゼル。伝説的なコレクター、コンラート・バイラーが、所有するアンリ・ルソーの作品の真贋を、二人の鑑定人に依頼する。一人はニューヨーク近代美術館のティム・ブラウン、もう一人は「天才」と称される研究者、ハヤカワ・オリエ。だが、そこにはとんでもない条件がついていた。それは、鑑定勝負の勝者にルソーの作品を譲り渡すこと。そして、鑑定にあたっては、7日間にわたりひとつの「物語」を、一章ずつ読むこと・・・・・・。

そうなのだ。この小説は実は、奇妙な鑑定勝負の中に、もう一つの物語が入れ子になっているのである。しかも、その物語の中で明かされる驚くべき「事情」が、目の前の絵画そのものの見え方を変えていく。そしてクライマックスで待っている、とてつもないサプライズ。二つの物語が融合し、それまで見ていたはずの光景が、まったく違った意味をもって見えてくる。う~ん。アートを主題にした小説として、こんな「見せ方」があったとは。

そして、読んでいる途中、むしょうにルソーの作品が見たくなり、美術館に行きたくなる。本書はアートを扱った小説として一級品であると同時に、アートの世界への魅力的な水先案内人でもあるのである。

【2225冊目】白川静『文字講話2』

 

文字講話 II (平凡社ライブラリー)

文字講話 II (平凡社ライブラリー)

 

 
第六話「原始の宗教」

「われわれの知性として、もし考えられる宗教があれば、禅宗のようなもの以外にはない。禅宗においては、師にあえば師を殺す、仏にあえば仏を殺すという、何物の権威をも認めないところに、自分の生きる道を見出そうとする。それはあるいは究極の宗教ではないか」(p.53)

 


第七話「祭祀について」

「本来は「まつり」はどういうものであったかといいますと、これは神に対してまつるのでありますから、神をまつる場合には、たとえば祝詞を奏上する。それからお供えものを捧げる。それからいろんな行事を行うことによって、神に仕えるわけです。文字の上で一番はじめにそういうまつりを意味することばであったのは、歴史の史という字。われわれは歴史の史という字に使っておりますが、史は本来「まつり」を意味することばであった」(p.61)

 



第八話「国家と社会」

「「見る」というのは、なかなか容易ならぬ見方なのであって、単に眺めるというのではなしに、わが国の古い時代の、国見という場合の「見」ですね。見ることで、それを支配するわけです」(p.129)

 



第九章「原始法について」

「もし悪事をやった場合は、これは本人がやったのではない。本人に仮に宿ったところの悪い霊がやったのである。したがって、その悪い科(とが)とか、妖かしなどによる、そういうふうなものを祓い清めることができれば、それでもとの清らかな、すがすがしい状態が回復できる」(p.166)

 



第十話「戦争について」

「戦争のための破壊兵器は、今その極限に達している。一瞬にして一千万の大都市も廃墟となり、同時に暴発すれば地上は荒地と化するであろう。内戦や紛争は絶えることなく、世界の三大国がその兵器供給の元凶である。〔老子〕第六十九章に「抗兵相加ふるときは、哀しむ者勝つ」という。戦争の悲哀を知るものが、最後の勝利者であるとするのである」(p.211)

 



古代から現代まで、観念の発生と変遷を追うことは難しいが、そのためのカギとなるのが「漢字」である。漢字の読み解きを通して、これほどの発見と思索を得ることができるのか。白川東洋学の精華、二巻目。

【2224冊目】上野千鶴子『老いる準備』

 

老いる準備 介護することされること (朝日文庫)

老いる準備 介護することされること (朝日文庫)

 

 

「強さを価値として持てば持つほど、自分がその能力を失っていくことに耐えられなくなる。価値と現実とのギャップが広がる。あたりまえだろう。それだったら、はじめから自分の弱さに居直って生きていく道はないだろうかというのが、わたしのフェミニズムの出発点だった」(p.20)

 



「なぜ、女のやる仕事、産み・育て・看とるという生命に関わる仕事が不払い労働(タダ働き)なのか。なぜ、女のやる仕事は限りなくタダに近いと評価されるのか。それが、母の人生を見てきたわたしの出発点だった。介護保険は、わたしが専門にしてきた不払い労働論という学問の、二〇年におよぶ成果を生かすことのできる試金石となった。ようやく、女のタダ働きが食える労働に変わるかという、歴史的な実験にのりだせる機会が訪れたのである」(p.200-201)

 
いくつかの講演内容や論考を集めた一冊なのだが、その中で「上野千鶴子の関心は、なぜフェミニズムから(あるいは、それと並行して)福祉に向かったのか」という問いに答えるとすれば、上の2つの引用がその回答になるのではないか。

女性問題と老人問題は似ている、という指摘も本書にはあったが、確かに、両者は共通するところが多い。それはなぜかといえば、現代の人間観、社会観の「主流」が、非・高齢者である成人男性にあるからだろう(そういえば、「子ども」が抱える問題も、女性や高齢者とよく似ている)。

弱さを引き受け、その上で自立した生活を目指す。その先駆者だったのが、障害者運動だったというのが興味深い。誰にも頼らない「自立」ではなく、堂々と他者に頼りつつ、自分のやりたいことをやる。障害者の自立生活運動から、著者はそのことを学んだという。

一方、著者の視点は介護を供給する側にも向けられる。「公」でも「民」でもない「協」の団体として著者がワーカーズ・コープを挙げるのは『ケアの社会学』でも見られたことであるが、NPOも含めたこの中間領域をどのように育てていくのかという課題は、今も解決されていないままである。一方、「公」を担う社会福祉協議会、さらには行政職員に対しては、非常に厳しい言葉が並ぶ。著者は、これからの行政職員は定型的なサービスはアウトソーシングし、地域の市民活動や市民事業をつなぐネットワーカーに特化すべきであるという。少し長いが、最後に引用しておく。自治体職員各位におかれては、叱られているつもりで読みましょう。

「これからの行政の職員に求められる資質は、市民のニーズがどこにあって、何と何をどう組み合わせればどのような資源、つまりヒトと活動と情報がどこにあって、何と何をどう組み合わせればどのように新しい事業展開が可能か、ということを見抜く見識であり、それらを結びつける能力であろう。そのためには、行政職員が市民とのネットワークをもっていなければならない。一日中、九時から五時まで机に座ったままの行政の職員なんてもういらない。デスクワークや定型的業務もアウトソーシングすればよい。勤務時間の半分は外に出ていてほしいし、いつでも外に出られるように、行政の、とくに女子職員の、あの制服なんてものは、ただちにやめてほしい。役所に来るとサンダルに履き替えるのもやめてほしい。制服とサンダルを見ると、すぐに外に出るという姿勢がまずないことが、ただちにわかってしまう。もうデスクワークだけで行政ができる時代じゃない。市民との連携のなかでキーパーソンの役割を果たさないと、職員の存在意義はないだろう」(p.212-213)

 
書籍のタイトルからは想像もつかない広がりと深さの、上野千鶴子式・ケア論の入門書。ただし、激辛。




【2223冊目】町田康『ゴランノスポン』

 

ゴランノスポン (新潮文庫)

ゴランノスポン (新潮文庫)

 

 

短篇集。「楠木正成」「ゴランノスポン」「一般の魔力」「二倍」「尻の泉」「末摘花」「先生との旅」の7篇が収められている。

現代と中世が混然となった「楠木正成」は、語りの芸術ともいえる作品。もうひとつの歴史モノである「末摘花」は、源氏物語の「末摘花」を町田流にアレンジした作品で、源氏物語特有のふんわりとしたまわりくどい文章が、数倍の「くどさ」で語りなおされている。

痛烈だったのは、「毎日に感謝」「日々が充実」と言いながら居酒屋で店員が突然倒れてもそのまま飲み続ける「僕ら」の偽善性をあぶりだす「ゴランノスポン」と、超エゴイストな「生活の化物」(これは中村文則が解説で書いていた表現)を描きつつ、ラストでそれまでの景色が一挙に反転する「一般の魔力」。

現実の反転という意味では、より徹底しているのが「二倍」「尻の泉」の二作なのだが、これはネタバラシをしてしまうと衝撃度が薄まってしまうので、ここまでにしておく。「先生との旅」も、エライ先生(と思い込んでいる相手)とのひきつったような会話が絶妙で、そのシュールさがラストのどんでん返しにうまく効いている。

それにしても、久しぶりに読んだが、やはりこの人の文章は魅力的だ。独特のリズムと語感。特に会話や独語の秀逸さは、もはや誰もマネできないし、してもすぐバレてしまうほどの「町田節」なのだ。

「よかったなあ。助かったなあ。いやあ、よかった。わぎゃ。な、なんで俺を斬る? わぎゃあ。苞のなかから武具が。わぎゃ。たばかられた。これは例によって楠木正成の奇略だ。トロイの木馬のごとき。わぎゃあああ」(「楠木正成」)

 

 

「そうそうそうそうそうそう。なんか有機農法とかやってそうな」
「そうそうそうそうそうそう。着てるものやなんかもさあ、なんかインディアンみたいな」(「一般の魔力」)

 



「はっ。はははははっ。Hahahahahaha。これで僕はいよいよ完全完璧アブソルトリー、シャブ中の変態の犯罪者だ。はははははっ。Hahahahaha。なんてざまだ。なんて愚かなベイビーだ。とんだ座布団十枚だ。はははは。Hahahahahahahahahahaha」(「尻の泉」)

 



【2222冊目】赤松啓介『宗教と性の民俗学』

 

宗教と性の民俗学

宗教と性の民俗学

 

 

「深夜十一時ぐらいになって暗くなると、勤行につかれた人たちが後方とか、左右の横に寝具をとって休眠する。単独の人もあるが、男女で組の人も多い。組の人たちは性交をするが、別にかくすというほどのことはしない。(略)それほど男も女も気にしないで楽しんでいる」(p.83)

 

オコモリ(御籠り)の際のザコネ(雑魚寝)の風景である。祭りの夜、お参りして遅くなると、そのままみんなで雑魚寝する。そこでセックスするといっても、周りも寝ている中なので、「抱き合って腹から下を合わすだけ」「ピストン運動はできないで、「ア、ウンの呼吸」に合わせてしめたり、ゆるめたり、ふくらませたり、ひっこめたりの緩急運動」ということになる。もっとも、バレないようにと思っていても、たいていはすぐわかってしまう。それでもそれほど互いに気にしない、あっけらかんとした性風俗の現場なのである。

「宗教」と「性」という、ある意味で対極とも思える要素が、民衆生活の中ではむしろ不可分一体でさえあったことを、本書は明らかにしてみせる。言い忘れたが、著者は在野の民俗学者としては筋金入り。そのフィールドワークはハンパではなく、本書を読む限りでは、どうも自分から宗教をおこして教祖をやっていたこともあるらしい。実際、「オガミヤ」「ウラナイヤ」の描写のリアリティたるや、自分でやっていなければ到底知り得ないようなことばかりなのだ。

とにかく学者面、インテリ面とこれほど縁のない学者も珍しく、民衆の中にすっかり溶け込んでしまうようなのである。もっとも、それくらいでないと、「性」についてこれほどあけすけに語ってくれるワケがない。その意味で、本書に書かれている「宗教」と「性」のディープな関係は、著者だからこそ聞き出すことができたものなのだ。