自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2181冊目】高野秀行『イスラム飲酒紀行』

イスラム圏は異教徒も「込み」で成立していたのではないか。そう考えないと、イスラム圏のムスリムは、今でも異教徒に(略)驚くほど寛容で気遣いがあることが説明できない(高野秀行イスラム飲酒紀行』p.314「あとがき」より)

 

 

イスラム飲酒紀行 (講談社文庫)

イスラム飲酒紀行 (講談社文庫)

 

 

酒が飲めないはずのイスラム圏で酒を求めて旅をするという、もはや著者にしかできないであろうトンデモな旅の記録。

もちろんそういう旅ができるということは、実はイスラム圏の人々も、表では「飲まない」と言ってはいるが、裏ではこっそり飲んでいるのだ。だが、その「裏」にたどり着くためには、交渉し、裏を探り、時には危ない目にも合わなければならない。その地域の上っ面だけを撫でているような「ぬるい」紀行作家には、到底書けない本なのである。

だから本書は、飲酒という切り口でイスラム社会を切り取ることで、実はイスラム社会そのものの裏側に光を当てた一冊なのだ。まあ、裏側といってもとんでもないアンダーグラウンドなものではなく、自分たちだけが知っている、こっそり酒が飲める場所だったり、売っている店だったりするのだけれど。そして、そういうところを探すうちに著者が得た確信が、冒頭のセリフになってくるのだ。

実際、著者が出会うイスラム圏の人々は、びっくりするほど親切でフレンドリーだ。それは著者自身の人柄ということもあるのだろうが、それを差し引いても、よく言われる「イスラム教徒の非寛容性」とかいう言葉が、実際は全然違っていることが、本書を読むとよくわかる。そんな言葉は、現地のタクシーの運転手やお店の人とちゃんとコミュニケーションを取らず、先入観だけでイスラム社会を見ているからこそ出てくるのではないだろうか。

【2180冊目】星野道夫『旅をする木』

「東京での仕事は忙しかったけれど、本当に行って良かった。何が良かったかって? それはね、私が東京であわただしく働いている時、その同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない、それを知ったこと・・・・・・」(星野道夫旅をする木』p.123)

 

 

旅をする木 (文春文庫)

旅をする木 (文春文庫)

 

 
読む前は興味さえなかったアラスカという土地に、読み終わった今は、行きたくてしょうがない。この本は、危険すぎる。

17年間にわたりアラスカに住む著者が綴る、自然の雄大さと繊細さ、現地の人々との交流。クマ。クジラ。カリブー。オーロラ。インディアン。一瞬の油断で命が奪われる自然の厳しさも、そこにはしっかりと描かれている。

だがなんといっても、世界にはそんな場所もあり、そんな光景もあるのだということに、読んでいて本当に心打たれ、勇気づけられる。そして、文章で読むだけでなく、実際にそこに行き、そんな光景を目に焼き付けたくなるのである。そう、冒頭の言葉を発した、東京で働く編集者のように・・・・・・

【2179冊目】山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』

ヴェーバーキリスト教文化が内包する合理化の普遍性を一貫して強調したのです。そして、その普遍性にこそ恐るべき運命的な力が宿っていること、ここに警告を発していたのです(山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』)p.220

 

 

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

 

 


タイトルに「入門」とあるが、まったくの知識ゼロから入るのはキビしい。むしろ社会学の入門書などで通り一遍のヴェーバー理解を植え付けられた人が、その「洗脳」を解くのによさそうな一冊だ。

問題は、西洋近代社会の合理性が世界を席巻したのはなぜか、ということだ。確かに西洋の合理性には普遍的な「力」がある。だが、それは決して、西洋文明がすぐれていることを意味しない。むしろヴェーバーが指摘したのは、西洋合理主義が普遍的であるがゆえの危険性だった。

以前、ヴェーバーの『官僚制』を読んだが、あれもそういえば官僚制の合理性を強調した一冊だった。そのため、官僚制に関するテキストなどでは、ヴェーバーを「官僚制の合理性を評価した」人物として書かれており、それに対して他の社会学者の官僚制批判がぶつけられていることが多い。

だが、本書の主張に沿って考えれば、ヴェーバーは官僚制の合理性を単に礼讃したのではない、ということになる。むしろヴェーバーは、官僚制がすぐれて合理的であることを認めたうえで、「それゆえに危険である」ことを指摘したのだ。それが冒頭の引用にある「恐るべき運命的な力」ということになる。

そういう文脈で読めば、むしろ官僚制批判としては、凡百の学者よりも、一見礼讃しているように見えるヴェーバーの批判のほうが本質的でクリティカルなものなのかもしれない。西洋の優越性と見える部分こそ、実はもっとも深刻な西洋の暗部なのかもしれないのだ。

 

官僚制

官僚制

 

 

【2178冊目】デニス・ルへイン『夜に生きる』

「おれたちがサービスする客は(略)夜を訪ねる。だが、おれたちは夜を生きてる。客はおれたちの持ち物を借りる。つまり、うちの砂場で遊ぶわけだから、こっちはそのひと粒ひと粒から利益を得なきゃならない」(デニス・ルへイン『夜に生きる』p.37)

 

 

 

夜に生きる 〔ハヤカワ・ミステリ1869〕 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

夜に生きる 〔ハヤカワ・ミステリ1869〕 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 

 
以前読んだ『運命の日』の主人公ダニーの弟、ジョーが主人公のノワール・ミステリがこの『夜に生きる』だ。同じ警察幹部の息子でも、ダニーが正しいと信じる道を進んだのに対して、ジョーはなんと裏社会でギャングとしてのしあがろうとする。

一瞬も油断のできない、禁酒法時代のアメリカのアンダーワールド。刑務所に入り、船を爆破し、敵対するギャングと闘い、裏切り、裏切られ・・・・・・。何が起きてもおかしくない時代とはいっても、次から次へとやってくる予想外の展開は、文字通り読むのがやめられなくなる。

そして、「夜に生きる」道を選び、表社会のルールから離れて生きるがゆえの絶望と悲哀が、読むほどに胸を打つ。たぶん、表の社会で「まっとうに」暮らした方が、ジョーにとっては楽だったに違いない。だがそれでも、やはり夜の社会に殉ずるのが、おそらくはジョーにとっての矜持であって、「悪」の美学なのである。

 

 

【2177冊目】阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』

「これまでの歴史の書物では、事件の流れを追えば、一応歴史は理解されたと考えられていたように思われます。けれども私はただ事件の流れを追うだけでなく、理解し、解りたいと考えているのです。解るということは自分の奥底で納得するということですから、最終的には歴史の諸事象の奥底にあり、自分の内面と呼応する関係、あるいはその変化を発見したときに、理解できたことになるのです」(阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』(ちくま文庫 2007) p.131)

 

 

自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

 

 
この本のタイトルは「自分のなかに歴史をよむ」。歴史を自分の外側にあるものではなく、自分と呼応しているものだと考える。しかも「歴史のなかの自分」ではなく「自分のなかの歴史」というのが、キモだ。

歴史に親しみたければ、いきなり教科書を読むのではなく、まずは「自分」から始めるのが良い。本書でも提案されている、そのためのおススメの方法は、日常に潜む歴史をさぐってみることだ。例えば、毎年「お正月」を祝っていても、その由来を知っていますか? ひな祭りはどうでしょうか。クリスマスは? キリストの誕生日? でも、クリスマスが「冬至」に近いのは、何か理由があるのではないでしょうか。

言葉の由来を探るのも面白い。地域の歴史でもいいし、サッカーが好きならサッカーの歴史、料理が好きなら料理の歴史を辿るのも一興だ。そして、夢中になって調べているうちに、中世ヨーロッパや古代の日本にいる自分に気づくことだろう。「自分」と「世界」は地続きなのである。


本書は阿部謹也の入門書だ。中高生向けとのことで非常にわかりやすいし、著者自身の半生に加え、ハーメルンの笛吹きから中世の差別問題まで、阿部歴史学のエッセンスが詰まっている。そしてなんといっても、著者自身がどのように「自分のなかに歴史を」読んできたかがよくわかる。おススメだ。