『論語』の寂莫
「子、川の上(ほとり)に在りて曰わく、逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(や)めず(孔子)」
≪訳≫先生が川のほとりでいわれた。「すぎゆくものはこの(流れの)ようであろうか。昼も夜も休まない」
『論語』の中でも、どこか無常感が感じられて気に入っている一文だ。『論語』は説教臭いとして煙たがられることが多いが、これは学校での教え方にも問題があるのではなかろうか。パラパラめくっていると、お堅いものばかりではなく、意外にいろんなフレーズが出てきて、孔子という人物の多面性を感じることができる。上のフレーズなんて、まるっきり『方丈記』のイントロである。
だが、孔子が「無常」を感じるほどに達観していたか、どうか。むしろ自らのもとを去っていく人々を詠嘆する寂しさのようなものが、しんみりと感じられる。それが中国の雄大な河川に重ねられているのである。常なるものはなく、万物は常に流転する。だからこそ孔子は、そこに確かなるものを求め、それを古代の周王の時代に追憶したのかもしれない。
【2176冊目】アンドレア・ウルフ『フンボルトの冒険』
「自然は「生命の網」であり、地球規模の力なのだとフンボルトは気づいた。ある研究仲間がのちに述べたところによると、フンボルトはすべてが「千本の糸」でつながっていると理解したはじめての人だった。この新しい自然観が、こののち人びとが世界を見る目を変えることになる」(アンドレア・ウルフ『フンボルトの冒険』(NHK出版 2017) p.136-137)
この本、すっごく面白かった。フンボルトなんてほとんど知らなかったが、こんな途方もない人物だとは。
アレクサンダー・フォン・フンボルト。ナポレオンの同時代人であり、当時「世界でナポレオンに次ぐ有名人」と言われ、ゲーテは「フンボルトと数日ともに過ごすのは「数年生きる」のと変わらない」と言った。ダーウィンはビーグル号にフンボルトの著作集を持ち込んで愛読した。ソローの『森の生活』も、フンボルトの存在がなければ生まれなかっただろう。トーマス・ジェファーソンもシモン・ボリバルもフンボルトと親交を結び、一目も二目もおいていた。
環境保護を世界で最初に訴えたのも、おそらくフンボルトだ。自然とは個々の要素ではなくそのつながりで捉え、因果の連鎖のうちに成り立つ「生命の網」であると考え、その一部を人間が考え無しに破壊することが、自然環境全体をどれほど損なうかと力説した。大陸移動説やプレートテクトニクスも、さらには進化論さえも、その萌芽となるような発想はフンボルトがすでにもたらしていた。奴隷制やアメリカの先住民政策に強く反対し、「すべての人間は自由に生きるようにデザインされている」と述べたのもフンボルトだった。
だが、本書の面白さは、なんといってもフンボルトのフィールドワーク、より正確に言えば「探検」にある。ラテンアメリカ、アングロアメリカ、そしてロシア。インドに行くこと、ヒマラヤ山脈に登ることを切望していた。南米ではアンデスの高峰で雪に埋もれかけ、火山の噴火を見に行けず本気で悔しがり、ロシアでは事前の命令に背いてアルタイ山脈を越え、中国やモンゴルまで行ってしまうのだ(日本にフンボルトが来なかったことが惜しまれる)。
このクレイジーなまでの危険を顧みない研究熱心さ、誰かに似ていると思ったら、ヤマザキマリの漫画で読んだ「プリニウス」だった。火山好きなところも、博識でしゃべり出すと止まらないところも、言いたいことを言うわりに妙に憎めないところも、そういえばそっくりだ。違うのは、プリニウスが博物学の黎明期における巨人であるのに対して、フンボルトは学問が専門化、細分化、タコツボ化されつつある時代における、おそらくは「最後の博物学者」である、ということだろう(強いて言えば、その後継者は荒俣宏か)。それが同時に最初のエコロジストであった、というのが面白い。
それにしてもこの著者、よくぞこんなに生き生きと、こんなに細部にわたってフンボルトという希代の人物を掘り出し、描き出したものだ。すばらしいノンフィクションだった。
狩野博幸『もっと知りたい河鍋暁斎』
「少なくとも、江戸から明治を生きた画家のなかで、暁斎ほど筆の力を持った者はひとりもいない」(狩野博幸『もっと知りたい河鍋暁斎』p.88)
もっと知りたい河鍋暁斎―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
- 作者: 狩野博幸
- 出版社/メーカー: 東京美術
- 発売日: 2013/04/25
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月曜日、久々に休みが取れたので(と言っても日曜出勤の代休だが)、渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「河鍋暁斎展」に行ってきた。
上野のティツィアーノ展とどちらにしようか迷ったのだが、暁斎の魅力には勝てなかった。開催直後なので混み具合が心配だったが、平日ということもあって、わりとゆったり鑑賞できた(むしろテレビやネットで取り上げられて、これから来場者数が増えるんじゃなかろうか。上野の若冲展の悪夢を思い出す)。
で、内容なのだが、とっても良かった。また行っても良いと思えるくらい。いやホント。
しょっぱな、鴉画がずらりと並んでいるのにまず驚いたが、同じような構図でも鴉の表情や細かい部分がちょっとずつ違っていて、どんなに観ていても飽きないのがさらに驚き。ユーモラスな動物画、おどろおどろしい幽霊画、めったに見られない暁斎の春画までちゃんと展示してあって、展示点数も多からず少なからず。メリハリの利いた展示方法にも好感が持てる。
暁斎の絵は、なんといっても表情が素晴らしい。生きているよう、という表現は月並みだが、本当に、動物でも妖怪でも、顔を見ているうちにどんな性格のヤツなのかが想像できるのだ。身体の動きも含めて、擬人化の極致なのである。連想したのは、宮崎駿の映画(特に『千と千尋の神隠し』に出てくる神様たち)と、モーリス・センダックの絵本『かいじゅうたちのいるところ』。まあ、つまりはああいう感じなのだ。ただし、描かれたのは宮崎駿やセンダックよりずっと前、幕末から明治にかけての頃なのだけれど。
- 作者: モーリス・センダック,じんぐうてるお,Maurice Sendak
- 出版社/メーカー: 冨山房
- 発売日: 1975/12/05
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特に惹かれたのが妖怪たちのユーモラスな行進を描いた巨大な「百鬼夜行図屏風」。実はワタクシ、この絵を後から見たいというだけの理由で、めったに買わない図録を買ってしまったのだ。化け物たちの豊かな表情がなんとも魅力的で、忘れがたいのである。さらにミュージアムショップでこの「百鬼夜行図屏風」がデザインされたTシャツが売っていたのだが、こちらは色がイマイチで断念。黒かネイビー、ダークブラウンだったら買っていた。
(これは全体のごく一部)
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【2175冊目】橋爪大三郎『面白くて眠れなくなる社会学』
社会学とは何か。「社会の法則」をあきらかにする学問である。
社会の法則は、自然法則ほど明確に定まっているものではない。だが、社会がどういう仕組みに基づいて動いているのかを知ることは、きわめて実用的だ。特に、本書がターゲットにしているらしい中学生から高校生にとっては。
世の中の仕組みを知らずに世の中に出ていくことほど、恐ろしいことはない。だが、社会の法則を学校で教えてくれることは、ほとんどない。せいぜい政治や経済、法律といった「縦割り化」された学問体系の中で、そのひとつの側面を学ぶに過ぎない。だから例えば、学生たちは「仕事」とは何なのかをよく知らないまま仕事に就き、「結婚」とはどういうものかを知らないまま結婚し、「家族」とはどういうものかを知らないまま家族をつくるのだ。
本書はそんな(主に)中高生に向けた「社会入門」のための一冊だ。正直、それほど意外なことが書かれているワケではない。むしろ、非常に生真面目に、かつまっとうに、社会とはどういうものかについて書かれている。
ただし、1カ所だけ、目から大きくウロコが落ちたくだりがある。「正義とは、正しさが外からやってきた、という感覚です」というフレーズだ。う~ん、これは、思いつかなかった。確かに言われてみれば、そうなのだ。だからこそ、「正義」とは時に厄介な存在になるのである。
【2174冊目】東山彰良『流』
とてつもない小説。とんでもない傑作。
かつて虐殺行為を働いた祖父をもつ主人公の若き日々。悪友と遊び歩き、恋に身を焦がし、兵役に就き、そして殺害された祖父をめぐり、自らのルーツを辿る。
台湾を舞台に、ユーモラスでエキサイティングなエピソードを重ねていく前半と、日本、そして中国に至る怒涛の後半。戦争と中国の分断を背景に、エネルギッシュな若き血が疾走する。雰囲気として似ているのは、民族の血と日々の生活を重ねた金城一紀、圧倒的なスケール感では莫言あたりだろうか。だがその濃密さと、歴史と現在を串刺しにする物語の厚みは、ちょっと他に類を見ない。
裏に流れているのは「過去の罪」と「赦し」をめぐる苦悩であろう。読んでいてどこか、日本の台湾支配や日中戦争をめぐる「罪と罰」が重なって見えた。日本にあたるのは、虐殺を働いた祖父か、その祖父を殺害した意外な人物か。間違いなく21世紀を代表する小説のひとつになるであろう、圧倒的な作品であった。