【2071冊目】柴崎友香『春の庭』
2014年の芥川賞受賞作。もう2年前なんですね。
「春の庭」という写真集に惹かれ、撮影が行われた水色の屋根の家にこだわる西という女性。くだんの家の隣にある古いアパートに住む、何事にも面倒くさがりな太郎という男性。物語は主に太郎の視点で進むが、途中で「春の庭」にまつわる西の思いが語られるほか、太郎の姉が突然「わたし」として語り始める部分もあって、やや混然としている。
筋書自体はなんということもない。いろいろ深読みしたくなるようなトピック(太郎が父の骨を砕いたすり鉢と乳棒とか、庭に掘られた大きな穴とか、アパートの部屋が干支の名前になっていることとか)もちりばめられているが、あまり分析しようという気にはならない。むしろ一読者として、筋書きというより小説そのもの、文章そのものを楽しみながら読んだ。
実際、この人の文章は、いい。匂い立つような、というか、五感が刺激されるような、というか。特に情景描写が、一見なんということもないような感じでさらりと書いてあるのだが、実に豊かで、それでいて無駄がない。一方的な描写ではなく、そこに見ている人(主に「太郎」)の感覚が入っているのも、いい。久しぶりに、小説らしい小説を読んだ。それも現代の書き手によって書かれたもの。なんだか、ちょっとうれしい気分になった。
【2070冊目】今野真二『振仮名の歴史』
日本語以外に、振仮名のあるコトバってあるんだろうか。少なくとも私は見たことがない。
そもそも振仮名は「読み」を示すことからはじまった。表意文字である中国語を読むためのガイドだったのだ。興味深いことに、『日本書紀』にはすでに「漂着」という文字に対して「ヨレリ」という読みがつけられている。外国語である中国語は、ここでは「ヨレリ」という日本語に「翻訳」されているのである。もちろん、一方ではいわゆる音読み(漂着なら「ヒョウチャク」)の振仮名がつけられている箇所もある。
そうなのだ。振仮名はそもそも、ひとつのコトバ(中国語)に対する日本語の読みの多様性を支えているのである。だが、それだけではない。実はひとつの日本語に対してもまた、さまざまな中国語(漢字)が対応している。つまり「言葉」と「振仮名」は、多対多の関係にあるのである。
本書に挙げられている例でいうと、「カヨフ」(かよう)という和訓に対応する漢字には「逗」「通」「返」「潜」「望」「憚」「穿」「暢」などがあり、一方で「達」という漢字に対応する和訓には「イタル」「コホス」「トホル」「トホス」「カナフ」「ヤル」「タツ」「ミチ」「ツカハス」「ツフサニ」「ナラス」「ユク」「カヨハス」「サトル」がある。ものすごい数だ。ちなみにこれらは、12~13世紀に成立したとされる『類聚名義抄』なる古辞書に書かれているものだという。
ちなみに現代の「常用漢字表」では、「達」には「タツ」という音が充てられているだけで、訓読みはひとつもない。かつての日本語がもっていた多様性がどれほど失われてしまったか、驚くほどである。しかもこれは本当に最近のことで、明治時代にはまだまだ、漢字と読みの多様多彩な関係が保たれていた。
さて、振仮名にこうした「読み」の機能があることは誰もが知っているが、著者はさらに、室町時代あたりからここに「表現としての振仮名」が加わったと説く。単に読みを示すだけではなく、振仮名自体がひとつの表現になっていくのである。
これが本格的に開花したのが江戸時代。ここでは振仮名が漢字の右側だけでなく左側にもつけられ、一方が読みを、もう一方が「語義の補足説明」を担うようになった。例えば『南総里見八犬伝』では「看病」に「みとり」「カンビョウ」の、「君命」に「くんめい」「オオセ」の振仮名が、同時に振られていたという。
読みを示すという最低限の機能からみれば明らかに過剰な振仮名の使用が、ここにはみられる。これを著者は、振仮名を「表現」の技巧、方法(マニエール)として追究した結果であって「振仮名のマニエリスム」であるという。その豊富な例をたっぷり取り上げた第三章は、本書の白眉といえるだろう。
では、こうした振仮名の「伝統」はすっかり廃れてしまったのか。常用漢字表の状況をみれば、確かにそう言えるかもしれない。だが一方では、たとえばサザンオールスターズの歌詞が、新たな「振仮名のマニエリスム」を展開していることを著者は示している。「合図」に「サイン」、「匂艶」に「にじいろ」という振仮名をつけるのもスゴイが、「トルバドール」に「troubadours」と振るに至っては、何をかいわんや。だがその逆もあって、例えば高野文子の『絶対安全剃刀』では「soda」に「ソーダ」という振仮名がつけられているという。
読みという機能を離れて、それ自体がひとつの表現手段となった振仮名の歴史を、本書は実にさまざまな例を挙げて解き明かしていく。そこからみえてくるのは、日本語という言葉そのものが辿ってきた歴史と、その懐の深さであった。山本有三は「振仮名廃止論」を唱えたというが、振仮名があるからこそ、日本語はその力を保ち続けることができたというべきなのかもしれない。
【2069冊目】中邑賢龍・福島智編『バリアフリー・コンフリクト』
ある人にとってのバリアを取り去ることが、別の人にとってのバリアになることがある。本書はそんな事例を集めた上で、どうやってもバリアのなくならない社会で、どうやって障害者と健常者の「共生」を実現するかについて考えた一冊だ。
この手の「コンフリクト」の典型例が、点字ブロックを敷設することによって、車いす利用者が移動しづらくなるというケースである。だが、こうした比較的わかりやすいもの(しかし解決はなかなか難しい)に、もっと厄介な事例もいろいろある。ここでは、本書5ページの図に沿って内容の一部をちょっとだけまとめてみる。
「新しい技術・制度の登場に伴って生じてきた問題」では、障害を「補う」ことと「増強する」ことの一筋縄ではいかない関係が紹介される。例えば、ピストリウスのような義足ランナーの場合はどうか。義足の能力が向上し、健常者の脚力を上回る性能を有するに至った場合、彼はオリンピックへの出場を認められるべきだろうか?
「技術・制度に対する人々の意識の変化に伴って生じてきた問題」では、人工内耳と「ろう文化」の関係が考えさせられる。極端な例として、人工内耳の技術が大きく進歩して「聴覚障害」自体が治るものになった場合、それまで存在するとされてきた「ろう文化」はどうなるのだろうか。
「バリアフリー化の方向性をめぐる対立」では、障害者アートをめぐる議論が興味深い。これについては、次の質問を掲げるだけで十分だろう。「障害者アートは『障害のあるなしに関係なく、同じ条件で社会に向き合える』場なのか、それとも『障害があるからこそ表現できるもの』なのか?」
ほかにも「バリアフリー化によって生まれる不公平感」の問題(例えば障害者雇用率やいろいろな割引制度)や、「バリアフリーによる内的葛藤」(これも先ほどの「ろう文化」に重なるテーマ)など、さまざまな角度から本書は「バリアフリー」とはどういうことなのか、さらにはこの社会で障害者が共に暮らすとはどういうことなのかということを問いかけてくる。
だが、そもそも障害のあるなしに関わらず、この社会はさまざまな利害や特徴をもった人がともに暮らしているのだから、そこに「コンフリクト」があるのは、ある意味当たり前のことなのである。
バリアフリー・コンフリクトなどというテーマがここで登場したのは、それまではそうした問題が顕在化しなかったということであり、それほどに「バリアフリー」自体がなかなか進んでいなかったということなのだ。その意味では、ようやく日本の社会も、バリアフリーの「中身」「質」が問題になるところまで到達した(個人的には、まだまだそこまでは至っていないような気もするが)ということなのかもしれない。
【2068冊目】宮部みゆき『荒神』
江戸時代の架空の藩「香山藩」と「永津野藩」を舞台にした、なんと怪物小説。怪物のような小説という意味ではなく、本当に怪物が出てくるのだ。
ある種のパニック小説なのであるが、そこに2つの藩の確執と因縁を絡めて奥行きをもたせつつ、500ページ以上を一気に読ませるという、さすがの力技小説。荒唐無稽とも思える題材から長大な物語を紡ぎだす腕っぷしの強さは、宮部みゆきかスティーヴン・キングか、といったところ。
怪物の気配を冒頭から漂わせつつ、著者は決して急がない。香山藩と永津野藩を行ったり来たりしながら、たくさんの登場人物をじっくり書き分け、さらには歴史の因縁を徐々に明らかにしていく。ここの「溜め」があればあるほど、後半の加速が効くのである。しかも怪物の姿が物語の半ば、ページ数でいうと250ページあたりまで出てこない。スピルバーグが『ジョーズ』でやったことと同じである。さすがにこの手の小説の骨法をよくわかっていらっしゃる。
それだけに、怪物が永津野藩の砦を襲うところからの展開は容赦ない。両藩の登場人物が一挙にねじり合わされ、過去の秘密が明らかになり、そして壮絶なラストシーンまで物語は猛スピードで進んでいく。特に砦の襲撃シーンでは、そこまで抑えに抑えた筆致を、著者が一気に解放しているのを感じる。絶対に楽しんで書いているな、これは。
そういうことで、エンタメとしては申し分のない作品なのだが、あえてひとつだけ気になったことを言うと、怪物の由来や正体について、いささか理が勝ちすぎているように感じた。小説の舞台が福島あたりということもあって、あまりにも怪物が「原発メタファー」「核兵器メタファー」に読めてしまうのだ。もっとわけのわからない絶対的な悪の塊であったほうが、読み手は絶対に怖いと思うのだが。キングだったらたぶんそうするのではなかろうか。『IT』や『ニードフル・シングス』がそうだったように。
【2067冊目】シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと』
今後、何度も読み返すことになるであろう一冊。今回はご挨拶代わりに、全体をさっと一読しただけ。それでもけっこう時間がかかった。歯ごたえがある。
再読、再再読で印象はどんどん変わってくると思うのだが、今の時点の印象では、「根こぎ」「根をもつ」というフレーズが強烈だった。人間はどこかに根をもっている必要がある。だが今や、どこでも人間存在そのものが根こぎにされている。労働からも、国家からも、社会からも……。
人は、自分ひとりでは生きられない。必ずやどこかに身を置き、そこに身を預けなければ、生きていくこと自体が務まらない。だが、この「預ける」というのが難しい。しかもヴェイユは、一か所ではなく複数の土壌に根を張るべきだという。
だが、そんな土壌が今や(といっても1940年頃)失われつつある。それも国家によって。「国家は冷たい存在で愛の対象たりえない。その一方で、愛の対象たりうるいっさいを抹殺し解消する。かくてわれわれは国家を愛せよと強いられる。ほかになにも存在しないから。これこそ現代人に課された精神的な呵責である」
今の日本でも、あてはまりそうな部分は多い。かつて多くのサラリーマンが根をもっていた会社は、不況となると容赦なくリストラを行うことがわかってしまった。地域のコミュニティも崩壊しており、他によって立つべき信仰もない。非正規雇用の若者であれば、なおさらだ。
そもそも、日本は過去に大規模な「根こぎ」を経験している。国家もろともの根こぎである。こんな一節がある。
「征服した国を同化したとフランスの諸王が讃えられるとき、その実態はほかならぬ諸王がこれらの国を大々的に根こぎにしたということだ。根こぎはだれにでも使える安直な同化手段である。自分の文化を奪われた人びとは文化なしでとどまるか、征服者がありがたく恵んでくれる文化の断片をうけとるか、そのいずれかである」
下巻の「根づき」と題された章では、科学中心主義や人間中心主義が厳しく退けられ、信仰の問題が大きく取り上げられる。キリスト教をベースにした内容だが、それでも老子のフレーズやインドの説話などが不意に挿入されるのがやや意外。「根こぎ」「根づき」との直接の関係ははっきり判読できなかったが、おそらくはそこに向かって身を預けろ、ということだろうか。次のフレーズが特に印象に残った。
「地上を支配するのは限定であり限界である。永遠なる叡智はこの宇宙をひとつの網目、もろもろの限定の網のなかに閉じこめる。宇宙はそのなかで暴れたりはしない。物質の粗野な力はわれわれには支配者のごとくみえるが、実態としてはまったき従順以外のなにものでもない」
では、人間は自らの判断や思考を捨てて神=永遠なる叡智に身を預けよ、ということなのかと思いきや、最後に突然「思考」の優位性が強調されるのでちょっと戸惑う。
「地上における諸力は至上権を行使する必然によって決定される。必然はそれぞれが思考にほかならぬ種々の関係性により構成される。つまり地上における至上の支配者たる力は、思考によってみごとに支配されるのだ。人間は思考する被造物である。よって力に命令をくだすものの側にいる」
もっとも、ここでいう「思考」は私的な思考であってはならない、ともヴェイユは言う。それは「真の注意力の効能によって魂をからっぽにして、永遠なる叡智が思考をみたすままにしておくなら、すべては変わる。そのとき、力を服従させる思考そのものを自身のうちに宿すことになろう」というような類の「思考」なのだ。
こうなってくると自即他、融通無碍、あたかも自分自身に神が流入して思考をもたらすというものになってきて、これは思考を超えているようにも思う。仏教にいう縁起のようなものに近いのだろうか。西洋の思想家ながらどこか東洋的で、しかし一本芯のとおった哲学者ヴェイユの、遺言のような大著である。