自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2066冊目】信田さよ子『加害者は変われるか?』

 

加害者は変われるか?: DVと虐待をみつめながら (ちくま文庫)
 

 
日本のDV対策は、良くも悪くも、被害者のことばかり考えてきた。

被害者が相談できる仕組みがつくられ、そこからシェルターに逃がすノウハウも進化した。だが「加害者」に対してはどうか。法律上、せいぜいできるのは保護命令。被害者が告訴しなければ犯罪にもならず、ましてや教育プログラムを裁判所命令で義務付けられることはない。

だが、これはどう考えてもおかしい。著者がいうように「妻が逃げるしかないのではなく、夫が変わるべき」なのである。そのための重要なステップが、DV加害者向けの教育プログラム。そこでカギとなるのは、加害者が「加害者であることを自覚」することだ。

そうなのだ。DVの加害者の多くに共通するのは、なんと「自分が加害者であるという自覚がそもそもない」ということなのだ。むしろ「自分は被害者」だと思い込んでいる人が多い。妻が「ちゃんと」家事をやらないから。妻が「自分勝手に」物事を決めるから。妻が「非常識な」ことをするから……要するに「妻が悪い。自分は被害者だ。妻を「正しく導く」ためには、暴力もやむを得ないのだ……」

だが、ここでいう「ちゃんと」「常識」「正しい」とは何か。それを定義しているのは誰なのか、というと、これは「夫」なのである(なお、DVの加害者のほとんど(98.8パーセント)が夫であり、被害者のほとんどが妻であることから、本書にならってこの読書ノートでも「加害者=夫」「被害者=妻」と固定的に書く。ここで「ごく一部でも妻が加害者のケースはあるのだから……」と言い出す人もいるのは承知しているが、そういう物言い自体がDVの問題を不必要に相対化し、矮小化する危険性を帯びているのである)。

著者はここでフーコーにならって、何が正しいかを決める力を「状況の定義権」と呼ぶ。フーコーによれば、権力とはこうした「何が正しいかを決める力をもっていること」のことを言うのだそうだ。DVでいえば、この「状況の定義権」を握っているのは夫である。「何が正しいかは自分が決める」「妻はそれに従うべきである(なにしろ「正しい」ことなのだから)」「従わない妻に対する暴力は許される」という狂気の三段論法が、多くのDVの基本ロジックである。

だが、なぜ世の夫たちは、自分にとっての「正しさ」を無邪気に確信できるのだろうか。ここでなるほどと思い、同時に慄然としたのは、その「正しさ」や「常識」「妻はこうあるべき」といった規範が、自分自身の育った家庭環境に由来している、ということだ。その中でも、特に妻の存在が、自分の「母親」と重なり合ってしまっている。夫にとって妻は「母親」の代わりなのであって、到底対等の人間などではないのである。

さらに厄介なのは、こうした夫の規範を妻自身が(やむにやまれず)取り込んで、「夫が暴力を振るうのは自分が悪いから」と思い込んでしまうことだ。つまり。今度は被害者であるはずの妻が「加害者意識」を持ってしまうのである。この「加害者が被害者意識をもち、被害者が加害者意識をもつ」というねじれた構造が、DVの解決を難しくしている。

だからカウンセリングや教育プログラムは、加害者が加害者意識をもち、被害者が被害者意識をもつ(というと妙だが、要するに「これはDVである」「自分は被害者である」という認識をもつ)ことに始まり、おそらくはここに終わるのだ。そのためにも、まずは加害者への教育プログラムを義務化し、関係修復のための必須要件にしていかなければならないのだが……。

【2065冊目】吉村昭『天に遊ぶ』

 

天に遊ぶ (新潮文庫)

天に遊ぶ (新潮文庫)

 

 

原稿用紙10枚という「超短編」21編が収められた一冊。

起承転結、とはよく言われるが、本書の中にはこれが全部詰まったものもあれば、「起承転」や「起承」だけのような作品もある。必ずしも小説として完結させず、宙に放るようにして終わっているものも少なくない。

だが、どの作品にも共通して、ある種の「手触り」が感じられる。生活の手触り、あるいは人生の手触りというような。匂い、音、さらには気配のようなものさえ、短い文章の中にたゆたっている。人生の断面図のような小説だが、それでも広がりがあって、奥行きがあるのである。その意味で、例えば星新一ショートショートとは、長さは似ていてもまったく異なる。

例えば「西瓜」という短編では、別れた妻から呼び出されて喫茶室で会うまでの微妙に高揚した気持ちや、訥々とした二人の会話のリアリティが絶妙で、そこから別れた妻への執着や、妻の方も自分を悪く思っていないであろうことがじわじわと伝わってくる。そしてラスト、「君枝は、このまま自然に自分のマンションについてくるにちがいない」という内心のつぶやきを最後に、小説はぷつりと終わる。

その確信が事実であるか、あるいは単なる慢心であるのかは、読者の想像に任されている。だが、それがいいのである。そこまでで描き出されている「かれ」の気持ちの揺らぎとざわめきの描写があれば十分なのだ。

「カフェー」という掌編もシャレている。これは著者自身のエッセイめいた作品なのだが、浅草でたまたま見た敷島という銘柄の煙草を吸ったところ、その香りから、急に少年時代の記憶がよみがえるのである。戦時中の、近所の大人たちの記憶が静かに語られるだけの作品なのだが、読むうちに敷島という煙草を味わってみたくなるような、煙草のけむりに淡い日々の記憶が封じ込められているような作品なのだ。

多彩で多芸。外れなしの21編。吉村昭という作家の底力が感じられる一冊である。

【2064冊目】シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』

 

工場日記 (講談社学術文庫)

工場日記 (講談社学術文庫)

 

 

パリの高等師範学校を出て、哲学教師となったヴェイユ。哲学者でもあって左翼運動の闘士でもあった彼女が、25歳のある日、とつぜん1年間の休職を願い出た。ある工場に一人の女工として「就職」したのである。

本書は、そうして飛び込んだ工場での日々の記録である。そこに展開されているのは、決してものめずらしい風景ではない。機械の部品のようになって働く労働環境も、そこで人間性が疲弊し、すり減っていくありさまも、私自身を含め、多かれ少なかれほとんどの労働者が経験していることだ。

とはいえ、そんな当たり前の光景が、ヴェイユにかかると一変する。当然だと思っていた状況が、実はきわめて非人間的であり、労働者の人間性を損なうものであるかということが、歴然と見えてくるのである。それは自分の人生の時間を文字通り「部品を1時間に600個つくる」ことに振り向けていることの意味であり、その時間がわずかな金銭に替えられていることの意味である。

「こういう生活がもたらすもっともつよい誘惑に、わたしもまた、ほとんどうちかつことができないようになった。それは、もはや考えることをしないという誘惑である。それだけが苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法なのだ」

 

これは、マルクスがいう意味での「疎外」そのものなのだろうか。そうかもしれない。が、それ以上の、人生を生きるということの本源的な意味にまで、ヴェイユの思索は届いているように思われる。

「ところで、わたしが何とかならないかと思っていることは、こういうすべてのことがどうしたら人間的になるかということよ」

 

「たましいに及ぼす隷属の影響」

 

生きるためには食べていかなければならない。そのためには働かなければならないし、機械の一部となるような環境でも耐え忍ばなければならない。たしかにそれはそのとおりなのかもしれないが、ではその無味乾燥な労働時間は、生きている時間には入らないのだろうか。ヴェイユが突きつけている問いのひとつは、まさにここにあるように思われる。

 

「生きるため」の手段としての労働も、生きている時間の一部であるはずなのに、生きることの外側におかれてしまっている。

 

ヴェイユが1年間の労働生活で直面したのは、まさにこのことであったのではないか。

「人間の生活において何より大切なことは、何年もの間―何ヵ月でも、あるいは何日間でも同じことだが―生活の上に重くのしかかってくるいろいろな出来事ではない。今の一分間が次の一分間にどんなふうにつながっているかというつながり方が大切なのである。そして、一分また一分と、このつながりを実現して行くために、―各人のからだと心とたましいにおいて、―何よりも注意力の訓練において、どれだけの努力がついやされたかが大切なことなのである」

 



日本の「哲学学者」とは違う、ホンモノの哲学者の筋金がここにある。自らの意思と経験と思索がひとつながりのものとなっている。ヴェイユの本ははじめて読んだが、これはホンモノだ。ほかの本も読んでみたい。

【2063冊目】森政稔『迷走する民主主義』

 

迷走する民主主義 (ちくま新書)

迷走する民主主義 (ちくま新書)

 

 
前著『変貌する民主主義』は良い本だった。民主主義という「捉えどころのないもの」へ多角的に光を当てて、その「本質」と「問題点」がわかりやすく語られていた。

本書はいわばその「応用編」「実践編」。前著刊行の翌年に起きた民主党への政権交代を中心に、だいたい小泉政権あたりから最近の安倍政権までの、日本の民主主義の迷走ぶりを分析している。

特に民主党政権の「失敗」の分析は、本書の白眉といってよい(白眉のわりにはかなり長いが)。民主党政権については、当たり前のようにダメ政権呼ばわりされるわりに、「なぜダメだったのか」を論理立てて説明したものは意外に少ない(たまにあってもあまり説得力を感じない)。だが本書の分析は、明確かつ本質的なところからきっちりと行われており、単なる誹謗中傷とは違った説得力豊かなものになっている。

その内容は多岐にわたるが、一言でいえば民主党は、世の中を成り立たせている仕組みの複雑な「絡み合い」に鈍感すぎたのかもしれない。だから物事の一面だけをみて資金を投入し、かえって多方面にマイナスの効果をばらまくことになる。高速道路無料化が公共交通機関の弱体化につながり、雇用促進政策はかえって企業の雇用抑制を招く。「生活が第一」と言いながら、民主党は生活の何たるかがわかっていなかったということなのだ。

さらに、著者は民主主義、あるいは「政治的なもの」という視点から(ここでは民主党政治に限らず)日本の政治の問題点をあきらかにしていく。視点は6つあるので、個々に見ていきたい。

1つ目は「決定(決断)」である。日本の政治が「決断できない政治」と言われて久しいが、むやみやたらな決断は、かえって政治の恣意性を印象付け、かえって信頼を失う。「決断の正当性は、決断主体の法的根拠だけではなく、政治的思慮もまた求められるというべきである。そして政治的思慮は、統治の合理性についての知を背景とするものである」

2つ目は「熟議」。熟議民主主義はポピュリズムへの警戒から注目されているが、民主党は熟議を強調したわりに、実際には異論をおしつぶす政治的権力の行使が目立った。マニフェストの存在も、政策決定を過度に縛り、議論自体を封殺してしまった。

3つ目は「調整」だ。調整がなぜ重要かといえば、有権者は決して一枚岩ではないからである。さまざまな立場、さまざまな利害があるからこそ、それを調整する政治的プロセスが必要となる。マニフェストに基づきダム建設を中止するがごとき決断は、歴史的経緯に基づく地元の複雑な利害を無視するものであった。

4つ目は「統治及び統治性」。政治とは統治である。だが統治するには、その対象となる社会を知らなければならない。民主党は社会がどのように構成されているかについてあまりにも無知であった。ゆえに、権力は握ったもののどうやって統治してよいのかがわからなかった。

5つ目は「公と私」である。ここで重要なのは、現代の社会では公と私が明確にわけられないということだ。公的領域にいわゆる「私企業」が入り込む例は、福祉や教育の分野をはじめたくさんある。私企業である以上、そこには市場原理が働くわけだが、公共サービスを担う以上、単純な市場原理だけでは割り切れないのも確かである。介護サービス事業から赤字路線のバスまで、「私」による公共インフラをどうするか。

6つ目は「参加と抵抗」。これは与党と野党という考え方をかぶせるとわかりやすい。参加とはいわば与党になること、政治に参加すること。民主主義とは、選挙を通じてこの「与党」と有権者を重ね合わせるプロセスであるともいえるだろう。これを「治者と被治者の自同性」という。一方、抵抗とは野党として政府の政策に反対することもあれば、デモのような行為もある。著者はこう書いている。「民主主義には参加によって治者と被治者の同一性を実現しようとする面と、それに異議を申し立て抵抗する面の両面がつねに含まれている」

なんともややこしい。だが、こうしたややこしさに付き合っていくことが「民主主義と付き合う」ということなのだろう。わかりやすく勢いの良い「独裁」の声に惑わされず、この複雑でとらえにくいシステムをしっかりと見据え、逃げずに相対していくことが、まがりなりにも民主主義を選択した国民の責任なのかもしれない。

【2062冊目】木々高太郎『光とその影/決闘』

 

 

ひょんなきっかけで読むことになった本だが、もともとは作家の名前さえ知らなかった。

木々高太郎。戦前の「探偵小説」作家の一人で、あの江戸川乱歩と論争して「探偵小説は芸術である」とぶちあげた。精緻なトリックと論理的な謎解きを志向したという点では、ひところの新本格ブームを思わせる。

とはいえ、「新本格」が人物造形をほぼ度外視したパズル的な作品にすぎなかったのに対して、本書は意外にも登場人物の「キャラ」が立っていて、人間ドラマとしてもなかなか読み応えがある。特に「恋慕」など、風変わりな恋愛小説として今でも通用する内容であり、後半の「探偵小説」部分への接続も鮮やかだ。

本書は前半が中編「光とその影」、後半が短編集という構成になっている。「光とその影」は戦後の作品らしいが、ステイシェンという神父が探偵役で、これがなかなかいい味を出している。いろんな意味で正統派の推理小説だが、否定を積み重ねることで真相に至るというロジックの進め方が独特だ。その例として出されている「ディラックの問題」がちょっと面白いので、少しだけ翻案し、ここにメモっておく。

「3人の人物A、B、Cがいる。5枚のトランプのうち3枚をA、B、Cの背中に貼り付け、残り2枚は隠しておく。トランプの内訳は、黒が3枚、赤が2枚。A、B、Cのいずれも、自分の背中についているトランプは見えないが、他の2人の背中についているトランプは見える。
 まず、探偵役がAに対して「自分の背中についているトランプの色がわかるか」と聞くと「わからない」と答えた。次にBにも同じ質問をするが、やはり「わからない」との回答。最後にCにも尋ねたところ「AとBがよく考えて、完全な推理の上でわからないと言っているのであれば、私には自分の背中についているトランプの色がわかる。それはXだ」と答えた。
 では、Cが答えたトランプの色Xは何か」

 



面白いことにここで本書は「読者はここで本を伏せて、この問題を解いてください」と「読者への挑戦状」めいた一文を入れているのだが、これ、かなり難しくて、ずいぶん考え込んでしまった。こういう「挑戦」もちょっとめずらしい。