自治体職員の読書ノート

読むために書くのか、書くために読むのか。

【2265冊目】マーカス・デュ・ソートイ『知の果てへの旅』

 

知の果てへの旅 (新潮クレスト・ブックス)

知の果てへの旅 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

「知る」とは何か。単に知識を増やすだけでは「知る」ことにはならない。本当に物事を「知る」ためには、自分が何を「知らない」かを知ることが大事になる。

だから、特に自然科学に関する本で言えば、すでに知られていることだけが書かれた本は、入門書でもない限り役に立たない。「ここまではわかっている」と「ここからはわかっていない」の境界線、いわば「キワ」にこそ、知の興奮と悦楽が詰まっているのである。

その意味で言えば、数学エッセイの名手マーカス・デュ・ソートイの書いたこの本は、究極の自然科学本である。何しろ本書は、自然科学のあらゆる方向における知の「最果ての地」に旅をしているのだから。その領域は、カオス理論、量子力学、宇宙の果て、意識の問題、そしてゲーデル不完全性定理と、まさに「知」と「未知」のギリギリのキワに立つものばかり。そしてその問題意識は、単に「未知=いまだ知られていない=いつかは知られる(と思われる)」というところを越えて「そもそも科学はすべてを解き明かせるのか」という根本問題にまで至る。

これはまさに天才ゲーデルが到達した境地である。ゲーデル「どんな数学の公理の枠組みを持ってきても、数学的には正しいのにその枠内では決して正しいと証明することができない言明が必ず存在する」(p.464)ことを証明した。同じように、例えばこの宇宙の中にいるわれわれは、宇宙という枠組みの外からこの宇宙を理解することはできない。自分の意識に囚われているわれわれは、他者の意識の有無(目の前にいるのが意識をもった人間なのか、意識をもたないゾンビorロボットであるか)を本当に知ることはできないのだ。

だからこそ本書のラスト近くで、著者は「科学がわたしたちにもたらすのは、現実を記述しているように見える物語なのだ」(p.518)と喝破するのである。もっとも、これは、科学がやっていることは無意味であるということではない。私たち自身がこの世界というひとつの「物語」を生きている以上、その物語世界を記述することは必要なのだ。

むしろ、この認識に立つと、科学がすべてを知り、理解できると考える科学者は、実は「神」によって世界の真理に到達できると考えるキリスト教の宗教者とあまり変わらないと言えるのかもしれない。宗教もまた、この世界を記述するひとつの物語なのである。ただその記述の仕方が、宗教と科学では違っているだけなのだ。