【1926冊目】ローレンス・クラウス『宇宙が始まる前には何があったのか?』
本書の著者ローレンス・クラウスは、科学至上主義で論争的、反神論的の三拍子が見事に揃った、なんだかリチャード・ドーキンスを思わせる人物だ(実際、ドーキンスは本書にもあとがきを寄せており、クラウスとは意気投合しているらしい)。だいたい本書は、「わたしは、「宇宙が誕生したからには、造物主が存在するはずだ」という、あらゆる宗教の基礎にある信念を支持していない」という、一部の人にとってはなんとも挑戦的な言明から始まるのである。
この手の、仮想敵を置いて一方的に議論を仕掛けるような書きぶりは、読んでいて少々疲れるのだが、それでも本書を読みとおす気になれたのは、それ以上に本筋の議論がエキサイティングだからだ。途中のディラック方程式のあたりは難解で、半ば挫折しながら無理やり通過したのだが、実はここのところが本書のキモの部分の理解につながっていることに途中で気づき、読み飛ばした部分にあわてて戻って読む、という読み方になってしまった(でもやっぱり難しかったが)。
さて、著者は本書で一貫して「宇宙は無から生まれた」と主張している。だが、そもそも「無から有は生まれない」のではないか。だからこそこれまで、宇宙は造物主が創造した、あるいは宇宙は常にこの状態のままである(定常宇宙論)と考えられてきたのだ。かのアインシュタインすら、宇宙が無から生まれるとは考えなかった。
ところが著者は、この「無から有は生まれない」という、いわば暗黙の前提そのものにノーを突きつける。「「無からは何も生じない」というルールには、科学的な基礎がない」(p.248)という指摘には、ギョッとさせられた。言われてみれば、たしかにそのとおりだ。
たしかに、ふつう「無」というと、文字通りなにもない、安定的な状態をイメージする。だが、実はこれがワナなのだ。著者によれば、「無」とはもっと不安定で、流動的なものであるという。著者の例えでいえば、そこでは「ふつふつと煮えるオートミールのお粥のように、直接的には観察できないほど短い時間のうちに、仮想粒子がぽっかりと生まれては現れて消えていく」(p.220)のだそうだ。もっとも、この「仮想粒子」の理解が私には非常に厄介で、そのために本書の途中でいったん戻らざるをえなかった。
それはともかく、量子論に基づく世界観は、無から宇宙が生まれ得るものだったのだ、という結論は、なんともコロンブスの卵めいていて面白い。なんと宇宙は、無から絶えず自発的に生じては消滅しているものだというのである。そんな、微妙なさざなみのような量子ゆらぎによって生じた無数の宇宙のなかで、わずかな非対称がそこに生じた場合、そこからインフレーションのような爆発的作用が起こり、その結果として今のような宇宙が出現する。このとき、空間と時間も同時に生じるため、こうした宇宙が出現するたびに、それは多元宇宙(マルチバース)として並列的に存在することになる。
書いていてこれで合っているかどうかイマイチ自信がないのだが、少なくとも私は、この部分を本書のキモであると読んだ。それ以外にも、宇宙の「平坦さ」やエネルギー量のことなど、気になる部分もいろいろあるのだが、ここで解説できるほど理解しているとは思えないので、「詳しくは本書をお読みください」という決まり文句で逃げておきたい。
そうそう、もうひとつ、本書にはギョッとする指摘があったので、最後にそのことをメモっておきたい。それはこの世界の「物理法則」についてである。著者によれば、現在の世界を支配している物理法則は、実はこの世界固有の物理法則にすぎないかもしれないという。物理法則はこの宇宙が生じた時に、たまたまそのようなものとして生じた可能性があるというのだ。つまり「物理学は環境科学にすぎない」かもしれないというのである。
科学者が物理法則を追求してきたのは、それがこの世界の普遍的な根本原理であると考えられてきたからだ。ところが「既知の物理法則は、われわれの存在と結びついた単なる偶然の結果だというなら、これまでの科学の目標は的外れだったことになる」(p.250)。この仮説に対して、著者は不快感を隠さない(まあ、科学者としてはそれはそうだろう)。だが、それでもあえてその可能性をはっきり書くところに、私はこの著者の科学者としての誠実さを感じた。