自治体職員の読書ノート

読むために書くのか、書くために読むのか。

再開予告

気づいたら1年以上の放置となっていた。これまでも半年程度「お休み」することはあったが、われながら1年は長い。さすがにもう休止か、と思われている方も多いかもしれない。

思えば10年の長きにわたり、「本を読んで、その本について書く」ことを繰り返してきた。冊数にして2200冊以上だから、ずいぶん続いてきたものだと思う。これだけ同じことを繰り返していると、なんとなく見えてくるものがある。「読む行為」が「書く行為」にどのようにつながっているかということを体感できたのが、何といっても大きい。単なる要約ではなく、感想文でもない「読書ノート」というスタイルだったのも良かったのだろう。ヘンに書き方を決めなかったので、自分の読書経験がそのまま流れ出てくるような形で書くことができたのだ。そうでなければ、たぶん10年も続かなかったと思う。

一方、この1年間は「読む行為」を「書く行為」に転換することなく、ひたすら「読み」に徹してきた。これによって見えてきたものも、また多かった。「書く」ことを前提にせずに読む場合、自分の中の「本の残り具合」がどう変わるか。それが1か月経ち、半年経ち、1年経つとどう変わってくるか。以前書いた「読書ノート」から、どれくらい読んだ本の内容を再生できるか(意外に記憶を喚起することができた)。更新していなくても、毎日250人程度がアクセスしてくれること(このアクセス数は、実は毎日のように更新していた時とあまり変わらない)も意外な驚きだった。「読書ノート」はストックのつもりで書いていたので、これはちょっと嬉しい発見でもあった。

さて、ずいぶん長くなってしまったが、何が言いたいかというと、そろそろ再開しようかと考えている。「読む」と「書く」がつながっていたほうが、自分にとっては読書体験が充実するし、文章力のメンテナンスにもなることがわかってきた。読書ノートを残すことで、読書体験の再生機能も大幅にアップする。読んでくれる「読者」がどれほどいるのかわからないが、まあ、更新してもしなくてもアクセス数が変わらないのだから、これはそれほど気にすることはない。これも気楽な発見であった。

電車に乗っていると、本を広げている人はほとんどいない。ほぼ全員がスマホか、タブレットを覗いている。町の本屋はどこも青息吐息である。本を読むという行為は、このまま廃れてしまうのか。

この「読書ノート」は、かかる風潮へのささやかな抵抗であり、スマホタブレットから本への回路をひらこうという試みである。否、そうありたいと思っている。この画面を眺めているあなたの目が明日は紙の上に書かれた文字を追い、画面をフリックしてるあなたの指先が、明日は本のページを繰っていますように。