自治体職員の読書ノート

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【1967冊目】藤原智美『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』

 

 

これから書くことは、あくまで一般論である。

文章は「構成」によってできている。「構造」といってもよい。あることを伝えるために、著者は論理をつなぎ、例示を挟み、そのことが説得力をもってきちんと伝わるよう工夫する。そこがうまくいっていないと、どんなにすぐれたメッセージも、読者に届くことはない。構成は内容に先行する。セマンティックスはシンタックスに依存する。

たとえば、「書きことば」と「ネットことば」の違いについて、書きことばを「紙に文字で記される」もの、ネットことばを「ネット上に書きこんだり、読んだりする画面上のことば」と定義する。ここまでは準備運動。

次に「書きことばは便利なネットことばに引っ越しをしているような印象をもつ人が大半です」というくだりが出てくる。さて、ここで少し考える必要が出てくるように思う。本当に、大半の人がそんなふうに思っているのだろうか。その根拠は? 「大半」ってどれくらい?

続く「うまく引っ越しできずにいるものとしては現代小説や評論、ルポルタージュなどが思い浮かびます」というのも、少々ひっかかるところである。だいたいこの文には主語がない。ここで「思い浮かぶ」主体は誰なのか? 「私」? それとも「一般読者」? この例示も根拠レス。具体例もなく、残念ながら説得力なし。電子書籍で読める現代小説、ネット上に掲載される評論やルポルタージュなどはいくらでもあるだろうし。

「引っ越し」というメタファーを使っているのも、曖昧さを加速させている。具体的に「引っ越し」とは何を意味するのだろうか。媒体の変更だろうか? それとも「書き方」の違い? 例えばワープロソフトで書いた小説を「紙の本」として刊行した場合、これは「書きことば」になるのか、それとも「ネットことば」になるのだろうか。

最初に挙げた定義に照らせば、この「ワープロソフトで書かれた紙の本」は「紙に文字で記されている」つまりは「書きことば」に属すると考えるべきなのだろう。ところがすぐ後で、著者は「ことばのプロセスが見えない」として、ワープロ専用機を使用した時の体験を持ち出し、手書きの原稿には創作のプロセスが形として残る」「デジタル化されると、創作の痕跡がすっかり消されて、完成したものだけしか見ることができない」と書き、続けて「結局ネットことばには、生みだしたことばへの反省的思考が大幅に欠けている」と指摘するのである。

ここではネットことばは、明らかに「ワープロのようなデジタル化された筆記用具」で書かれた言葉を指しており、上記の定義「ネット上に書きこんだり、読んだりする画面上のことば」とは、すでに食い違っているのがわかるだろう。もう少し細かく言えば、前者は主に「読み手」がどういったデバイスでテキストに接するか、ということを問題にしているのに対して、後半は書き手がどういうツールで書くか、ということを問題にしている。だが残念ながら、この両者は必ずしも一致しない。

ここで取り上げたのは、本書の中のせいぜい3~4頁のことだ。それでこれだけの「ひっかかり」が出てくるのだから、一冊を読みとおせば、ロジックを追う読書の訓練になること請け合いだ。その意味で、論理思考の練習台としてはうってつけの一冊。野矢茂樹『論理トレーニング101題』あたりと共に読まれたい。

 

論理トレーニング101題

論理トレーニング101題