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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1729冊目】ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』

情報・イメージ・ことば

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

図書館本22冊目にして「究極の図書館」の登場。ラストはなんといっても図書館の「盲目の帝王」ボルヘスだ。

図書館といえばボルヘスである。ボルヘスがアルゼンチン図書館の館長だったから、ではない。もっと抽象的な意味で、ボルヘスは図書館を統べる王であり、ボルヘスの作品も、すべてはここから出自していると思われるからである。だいたい次のような一文(本書所収「バベルの図書館」の書き出し)だけでも、ボルヘスを措いて図書館を語ることはできないと分かるだろう。

「(他の者たちは図書館と呼んでいるが)宇宙は、真ん中に大きな換気孔があり、きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている」

そもそもこの「バベルの図書館」だが、果たしてこれは「小説」なのだろうか。いや、むしろ、そうした分類自体が、この作品に限らずボルヘスには無意味なのだろう。ボルヘスの書いたものはただ「ボルヘスの作品」として取り扱うしかないものだし、それについて書くこうした文章もまた、ボルヘスに捉えられてしまう。

なにしろ、ボルヘスのように円環的で無限的に書くことはできないし、だからといって「ふつうに」書いてしまっては、ボルヘスを言い換えたことにはならない。たとえばこの「バベルの図書館」で掲げられている「公理」とは、次の二つなのだ。

「第一に、図書館は永遠を超えて(アブ・アエテルノ)存在する」

「第二に、正書法上の記号の数は二十五である」


……うーむ。

さらにさらに、ボルヘスが描くところでは、「他のすべての本の鍵であり完全な要約である、一冊の本が存在していなければならない」という「書物の人」が提示される。なんと「ある司書がそれを読みとおし、神に似た存在になった」のだそうだ。なお(たぶん)関連して、「隠れた奇跡」という短篇では、「クレメンティヌムの図書館」の夢の中での次のようなやりとりが書かれている。

「黒めがねをかけた司書が訊いた。何をお探しですか? フラディークは答えた。神を探しています。司書はいった。神はクレメンティヌムの四十五万冊のなかの一冊のなかの一ページのなかの一字のなかにおられます。わたしの父たちとわたしの父たちの父たちはその文字を探してきました。わたしもそれを探しているうちに盲目となったのです」


ボルヘスの文章を読むには、独特な「脳の筋肉」の使い方が必要だ。今まで聞いたことのない概念や論理や幻想が登場し、現実と非現実が地続きになっている。文章自体に屈折があり、しかしそこが「ボルヘス限定」の異様な魅力となっている。

「「現代の」ことばや方言がそれから派生したと推定されるトレーンの祖語には、名刺は存在しない。副詞的な価値を有する短音節の接尾辞(もしくは接頭辞)で修飾される、非人称動詞が存在する」(「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」より)


これなんか読んでいて「おおっ」と思わせられるが、しかし(その後に続く例示を読んでも)理解することは至難である。ということは、理解することはできなくとも、その文章を読んで驚くことはできる、ということなのだ。どうしてこんなことが可能なのか。いや、そもそも「理解しようとして読む」ことは、ボルヘスの読み方なのだろうか。

本の深淵、図書館の深奥を覗くための、深い深い一冊。