自治体職員の読書ノート

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【1699冊目】柳田国男『先祖の話』

柳田国男6冊目。テーマは「先祖」。

柳田によると、先祖という言葉は、日本では二通りの意味に捉えられている。第一義的には「家の最初の人ただ一人」を先祖と呼ぶ。しかし、そうした言葉の定義にとどまらず、「先祖は祀るべきもの」「先祖は必ず各家々に伴うもの」と考える者もいる。

前者は理屈であり、辞書的な理解の仕方だが、後者にはその人の死者観、歴史観、社会観がしみこんでいる。本書は後者の立場に立って、日本人にとっての先祖というもののありようを考察する一冊だ。

「人は死んだらどうなるか」というのは、ある意味人類共通の問いであるが、柳田によると、死んでもその魂魄はあくまでこの地上に残るというのが、日本人のもともとの死者観だった。もっと言えば、死者は自分の子孫の行く末を見届けたいので、地上に残りたいのだ。

もっとも、そのへんをずっとうろうろしているわけではない(そういう死者もいるようだが)。むしろ多いのは、魂は山に行く、と考えるパターン(日本人にとって山がいかに身近であったかについては、前回ご紹介した『山の人生』に詳しい)。そうした観念が、ひいては山の神になり、山岳信仰にもつながった可能性もあるようだ。

先祖が家に帰ってくるのは、主に盆と正月だ。正月、というのが現代からすると意外だが、柳田によれば、もともとは盆も正月も、先祖の霊を迎える行事だという。正月は本来、その年の「年神」を祀る行事であるが、柳田流の理解では、実はこの「年神」こそが先祖なのだ。ちなみにこの年神がやってくる方角が、例の恵方巻の「恵方」である。

そういえば日本では、死んだ人のことを「ホトケ」と呼び、「仏様になった」と言う。だが、仏教を少し知れば分かるように、仏様というのは本来、六道輪廻から解き放たれ、苦に満ちた現世を離れた存在であるはずであって、それがわざわざこの世に戻ってくるというのでは、そもそも仏教の教えと矛盾している。

おそらくこれは、厳密な意味での仏教における「仏」ではなく、どちらかというと「神」の意味合いで漠然と使われているように思われる。だが柳田はさらに、ホトケという言葉の語源にさかのぼり、面白い考察を行っている。一般に、ホトケのホトはサンスクリット語で目覚めた者を意味するbuddhaが「浮屠」と音写されたものに「家」または「気」がついたもの、などと考えられているが(異説も多い)、著者は、ホトケの語源は「ホトキ」ではないかと言うのである。

ホトキとは器物の名前だ。中世民間の盆の行事では、そこに食撰を入れて霊を祀る。そのことから祀られる霊自身を「ホトケ」と読んだのではないかというのが柳田の推理なのだ。ついでに言うと「盆」も、一般にはサンスクリット語で逆さ吊りを意味する「ウランバナ」が「盂蘭盆」になり、そこから来たものと言われることが多いが、これについても柳田は、祖霊に捧げる供物を盛る土焼きの食器が「盆」であることから来歴しているものと仮説している。

どちらが「正解」かは分からないが、柳田が言うように、祖先崇拝の行事で用いられていた「ホトケ」や「ボン」が、仏教の日本流入後に変容し、仏教用語にあてがわれたというほうが、なんとなくありそうな気がする。まあ、そもそも仏教が今のように「葬式仏教化」したのは江戸時代以降のことらしいので、それまでは日本古来の死者観、先祖観がそのまま残っていたのかもしれない。もちろん仏教的な死者観も持ち込まれはしたが、日本風にうまく変容され、古来の先祖崇拝と混ぜ合わされてしまったのだろう。

いずれにせよポイントは、死者は自分の「家」につき、家を見守り、時々は家に帰るという存在である、という点だ。「家」の承継はこうした祖霊の存在とワンセットだったのだ。ここで何が問題になってくるか、おわかりだろうか。例えば国のために亡くなった死者を、家とは離れた場所でひとまとめにして「祀る」ことが、実は問題となってくるのである。

柳田自身は明確に「靖国神社」を名指ししていないが、しかしこの理屈を推し進めると、大塚英志氏が解説で書いているように、戦争の死者を「国のために戦って死んだ若人」として靖国神社に祀るということになると、残された「家」のほうがどうなるのか、ということが問われざるをえなくなる。大塚氏はこう書いている。

「「国と府県」の「晴の祭場」とは靖国神社及び護国神社であり、柳田はそれだけでは死者は祀れない、と主張する。何故なら死者は「先祖」として「家」に祀られるのが自然であり、その「家」そのもの、死者を祀る人もまた、東京大空襲下、とめどなく死者の列に加わっている、ということに柳田は強い危機意識を持っている」(p.238-239)

軍人だけではない。一般市民にも大きな犠牲が生まれ、戦地では若者が兵卒としてバタバタと倒れていく。その死者の行く末についての観念が従来のものとずれていけば、その中で日本古来から連綿と続いてきた「先祖」と「家」をめぐる概念が崩れてしまう。それは敗戦に匹敵するレベルの、日本人の観念世界の根本に関する断絶が、日本に起きるということである。だからこそ著者は、太平洋戦争末期、あえて「先祖」をめぐる日本人の観念と所作を、本書においてもういちど捉え直したのではないだろうか。

そう考えると、個々の遺族の想いはあるだろうが、実は靖国神社への参拝ほど「反国民的」で「家の解体」に直結する「伝統破壊的」な行為はないのかもしれない。保守を称する方々はこの問いに、いったいどうお答えになるのだろうか。この点、ちょっと気になるところである。