読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1698冊目】柳田国男『山の人生』

柳田国男5冊目。

思えば、日本は山の国であった。

一部の大都市は別として、たいていの都市では、中心市街地からちょっと外れの方に行けば、もう街並みの向こうには山並みが見える。もっと小さな町や村なら、山はすぐ目の前にある存在だ。現代でさえそうなのだから、本書が書かれた大正時代では、山と人々の暮らしは相当に密接なものだったろう。

ただ密接とは言っても、多くの人々が住んでいるのは「里」であり、山はあくまで「外部」だった。いわば山は、人々にとってもっとも身近な「異界」であったのだ。そこには天狗がいて、山人がいて、山姥がいた。子どもが不意にいなくなる神隠しなどは、たいてい山の中に連れ去られるのが相場であった。さらに言えば、庶民の信仰もまた、山の神をはじめとした自然神であったのだ。

「信仰の基礎は生活の自然の要求にあって、強いて日月星辰というがごとき壮麗にして物遠いところには心を寄せず、四季朝夕の尋常の幸福を求め、最も平凡なる不安を避けようとしていた結果、夙に祭を申し謹み仕えたのは、主としては山の神荒野の神、または海川の神を出でなかったのである」(p.174)


本書はそうした山にまつわる伝承やら神話やらを集成した一冊だ。本書を読むと、山と里との関わりは、大きく二種類あることがうかがえる。里の者が山に行くパターンと、逆に山の者が里に来るパターンだ。

前者としては神隠しのようなものがもっとも多い。子どものみならず、産後に気の触れた女性がそのまま山に入るようなものもある。多くは行方不明となった理由を山に求めているのだろうが、中には神隠しから戻ってきた児童の話などもある。面白いのは、神隠しに遭いやすい気質のようなものがあるという話で、柳田自身も幼い頃、危なかったことがあるらしい。

さらに神がかりになりやすい児童もいて、「七歳の少童が庭に飛び降って神怪驚くべき言を発した」(p.40)ようなケースはけっこう多いらしい。これは託宣として尊ばれ、それどころか、こうした神がかり傾向のある子どもを探しだして「神童」として託宣を求めることもあった。

その子どもがトランス状態にならないと、「一人を取り囲んで多勢で唱え言をしたり、または単調な楽器の音で四方からこれを責めたりした」というから、子どもにとってはいい迷惑だ。「かごめかごめ」のような幼児のお遊戯が、こうした振舞いの名残りというのも面白い。

山に棲む者としては、天狗や山姥、山人などいろいろ紹介されているが、興味深いのはその中に顔の赤い人がいたということ。一方、男では青黒い顔色の者もいたらしいが、これで思い出すのは「赤鬼、青鬼」であろう。山に棲む「山人」たちはよく里にも出て、労役をしては握り飯を報酬に貰うなどしていたらしい。そうした伝承は日本各地に残っているという。

他にも狐や狸による「化かし」やら山の巨人デイダラボッチをめぐる伝承など、山に関わる人々の記憶が本書には写し取られている。ちなみに前に別の本で出てきた「山人=日本の先住民族説」については、本書ではほとんど出てこない。具体的なルーツより、語り継がれてきたさまざまな逸話を集成するほうに骨を折った、ということか。

山と言う「最も近い異界」が人間に与えた影響は計り知れない。本書はそのいわば入口を示した一冊だが、山と里との関係の奥深さは十分に伝わってきた。中には子殺しのようなギョッとする内容も含まれており、山云々を別にしても、当時の生活の状況を知るための聞き書きとしてきわめてよくできている。

日本人は、山と共に生きてきた。そのことを再確認できる一冊。