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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1331冊目】空海『三教指帰』

空海「三教指帰」―ビギナーズ日本の思想 (角川ソフィア文庫)

空海「三教指帰」―ビギナーズ日本の思想 (角川ソフィア文庫)

「さんごうしいき」と読む。原文にいきなりトライする度胸はなかったので、カドカワのビギナーズにお世話になった。現代語訳と原文(読み下し)がセットになってこの分量、この値段はありがたい。

空海24歳の作である。唐に渡り真言密教を持ち帰る前に書かれたものであるが、その分、仏教に対する空海の見方がストレートに出ていておもしろい。

筋書きは単純だ。遊び人の甥を改心させようと、儒者、道士、仏教者が説得にあたる。儒者の亀毛先生は、親孝行や忠義、学問等によって立身出世ができると説き、道士の虚亡隠士は、俗世の誘惑を断つことで仙人となり、永遠の命を手に入れられると説く。これに対して仏教者の仮名乞児は、そもそも人はすべて死ぬのであり、現世の利益を得るのではなく、解脱して涅槃の境地に至ることを説く。そしていつのまにか、放蕩の甥っ子はもとより、亀毛先生や虚亡隠士までが仏教の教えに身を打たれ、すっかり改心してしまうのである。

結論はあからさまに仏教びいきであり、これはそもそも本書の目的が仏教の優越性を説くものであるから仕方ないのだろうが、しかしその中でも、儒教道教の本質がピンポイントで名指しされ、つかみだされているのはさすが空海。両者の共通点が、目標とする境地はともかく、現世での満足を得ようとするところにあるなんて、目からウロコの指摘であった。

確かに儒教は、孔子の人生を見ても分かるようにあるべき政治や国家の姿を論じつつ、その中でいかに生きるかを説くもので、いわば俗世間のシステムにどっぷりはまったところに成り立っている。また道教も、(おおもとの老荘の教えはともかく)仙人として永遠の命を得ることに重点を置き、俗世からは離れようとするものの、「この世」での幸福のあり方を追求していることにはかわりない。

それに対して仏教は、そもそもこの世を仮のものとして見切りをつけてしまっている点で、儒教道教と根本的に異なる発想に立っている(この発想が深化し、密教の教えが組み合わさった結果が、のちの「秘密曼荼羅十住心論」になるわけだ)。実際、本書でもっとも迫力があるのは、いかなる貴人も美女もいずれは死に、身体は腐り、ウジ虫が湧くということを漢詩にした「無常の賦」。死こそが本質であり、生がかりそめのものにすぎないと、仮名乞児が延々と説き聞かせる場面である。

「袖の長いうすものの衣装にどうして喜んでいられましょう。墓所に生い繁る薜蘿(つたかずら)だけが死後の私達を覆う日常の飾りなのです……松蔭の塚やひさぎの茂る墓所こそが、あなたの永遠の郷里なのです」(p.82〜83)

メメント・モリ。死を想え。それこそが仏教の核心であり、本質であることが良く分かる一冊。「死」についていつも考え、死と向き合って生きるのはしんどいので、せめて時々は、ワクチンを打つようにこういう本を読むのである。それにしても、空海はあまりにデカすぎて、そのスケールがなかなか見えてこないのが困りもの。こういう人が平安時代の日本にいたことが、なんだか不思議に思えてくる。