自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1218冊目】野口雅弘『官僚制批判の論理と心理』

官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)

官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)

官僚制の擁護論かな? いまどき珍しいなぁ、くらいの認識で手に取ったのだが、読み始めて驚いた。これは出色の官僚論であり、行政論であり、政治論である。200ページにも満たない新書なのだが、官僚制論の系譜を西洋政治思想史から引っ張り出して展開し、そこに日本の官僚制論を載せて縦横に料理している。たいへん充実した一冊だ。

戦後の日本で官僚批判が大々的に展開されたのは、バブル崩壊後の1990年代あたりからであった。それまでは、官僚は「無能な政治家」に代わって日本を引っ張っていると言われ、一部を除いては、比較的高く評価されていたのだ。そのため、日本では、官僚批判や官僚制批判は最近のことと思われやすいが、実は、官僚制批判の歴史は古く、なんと官僚制という語の成立した18世紀中頃には始まっていたのだそうだ。つまり、官僚制とその批判は、歴史的には「ペア」で存在していたということになる。

官僚制というシステムは、そもそも一定の秩序の安定がないと生まれないと、著者は指摘する。そして、官僚制そのものも、秩序と安定の維持を至上命題とする。なぜなら、秩序と安定が崩壊したら、官僚制そのものも崩壊することになるからである。本書ではそれを、官吏の存在論的な保守性」(p.8)と表現している。

こうした官僚制は、一見、近代的な合理主義に基づいて存在しているように見える。しかしウェーバーは、その裏側に、専制君主の恣意を実現する、家産的で非合理性な「家産官僚制」の残滓があると指摘した。やっかいなのは、それが一見近代的な「合理性」のタテマエで動いている点である。目に見えない非合理性が、合理性・無謬性の名のもとで押しつけられると、そこに立ちあらわれるのは、まさにカフカ的な不条理だ。本書で指摘されているとおり、自らも労働者傷害保険協会という半官半民の組織で働いていたカフカが描いたのは、まさにそのような奇怪な状況が生まれつつある当時のヨーロッパ社会の陰画であった。

著者はさらに、ハンナ・アーレントを引用しつつ、専制君主の横暴はまだしも目に見えやすいのに対して、近代官僚制は「無人による支配」という匿名的な状況に陥りやすいと指摘する。そこでは、明確な責任の所在が見えなくなり、「現在行われていることについて釈明するように求められる人さえ残っていない」(p.24 アーレント『暴力について』本書引用より)状況に陥る。この批判は、とりわけ「頂点のないピラミッド」(カレル・ヴァン・ウォルフレン)を特質とする日本の官僚制によくあてはまる。

さて、次に著者が問題提起するのは、デモクラシーと官僚制の関係だ。ここでカギを握っているのが、アレクシス・ド・トクヴィルの思想である。トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』において、デモクラシーは平等性を要求するが、そのことがかえって官僚制・画一性の強化につながるという逆説を提示した。ところが一方では、そうした画一性そのものが、多様性を賞賛するデモクラシーの支持者に嫌悪される。つまり、デモクラシーは官僚制を呼び寄せ、同時にぶつかりあうのである。

こうした議論は、さらにハーバーマスに受け継がれる。その背景で動いていたのが、「レッセ・フェール」の自由主義的資本主義から、国家の市場介入によって資本主義の矛盾を調整する「後期資本主義」への移行である。そして、これに伴って国家と経済の関係が大きく変わる。かつては、国家は市場に対して中立を謳っていればよかった。しかし、それでは資本主義によって生じてくる労働問題や福祉の問題などに対応できない。政治は市場に介入せざるをえなくなり、経済に対する政治の「中立性」を守り切ることは難しくなる。そこで浮かび上がってくるのが、政治の「正当性」の問題だ。

こうした曲面では、デモクラシーはあまり機能しない。市場への介入や福祉社会の形成、雇用や労働の問題に的確に対処するには、高度な専門性が必要となるからである。そこで登場するのが、ハーバーマスのいうテクノクラート、つまり専門知識を持った官僚だ。「専門知識をもったテクノクラートの支配が進展し、その前で民主的な異議申し立ては弱められ、そして斥けられることになる」(p.77)

しかし、こうしたテクノクラートによる「支配」は、どのようにして正当性を与えられるのか。それがハーバーマスの問題意識であり、この「正当性」を疑うことこそが、現在の官僚制批判の主流であるといえる。日本でいえば、「護送船団方式」で高度経済成長を実現できた頃は、その利益を国民も享受できたので、多少の利権や癒着があっても大目にみられていた。ところが、バブル崩壊でこうした前提が崩れたことで、いわば日本におけるテクノクラート支配の正当性が失われ、それが1990年代以降の官僚バッシングにつながったのだった。

こうなってくると、次に起きることはだいたい決まっている。官僚支配の正当性がゆらいだ結果、魅力的に見えてくるのが「小さな政府」であり、後に述べる「政治主導」である。新自由主義がこうしたタイミングで登場したのは、決して偶然ではない。「後期資本主義国家においては、経済へのいかなる政治介入も、市場の論理を踏みにじり、特定の人々の既得権をつくりだし、擁護するものに見えてしまう。これを回避するには、介入をミニマムにする、つまり『小さな政府』が有効な方向性として浮かび上がってくるというわけである。このとき『民意』は、容易にそちらの方向に誘導されていく。『より多くのデモクラシーを』という方向性と、『より小さな政府を』という新自由主義の共闘による官僚制批判は、『正当性』をめぐる争いに直面して、後者に絡め取られていくのである」(p.94〜95)

そして、同時に求められやすいのが、政治主導である。官僚に任せてばかりいてはダメだから、「われわれ」が選んだ政治家がきちんとリーダーシップをとるべきだ、という意見自体は、もちろん正当なものだ。しかし問題は、現在の複雑極まりない社会状況において、行政は「原理的に割り切れない、パッチワーク的な構造物たらざるをえない」(p.117)ことである。そこに踏み込んで「改革」をやろうとすると、「財源の問題に直面せざるをえず、またわかりやすい『公平性』では割り切れない、さまざまな『介入』に対して説明が求められ、試行錯誤をくり返さざるをえない」(p.116〜117)。そこには、必ず批判を受ける余地が生まれる。そして今の日本の社会状況、特にマスメディアの論調は、そうした「試行錯誤」を受容することはまず考えられない。思えば政権交代後の民主党が陥ったのは、まさにこの泥沼的な状況であった。

こうして、「強いリーダーシップやブレのない一貫性を求める政治家は、新自由主義に引き寄せられる」(p.116)ということになる。「対外的にはタカ派で、対内的には『小さな政府』を唱えるというのが、もっとも無理がない。こうすれば、決定の負担を縮減し、筋を通しやすい」(同)からだ。小泉元総理が絶大な人気を誇り、「みんなの党」が大きな支持を集めている理由が、ここに見事に読み解かれている。政治への期待に政治家が応えようとすると、その選択肢は必然的に「小さな政府」しかないのである。だがそれは、支持率と引き換えに、市場の暴力性に国民をさらすという「悪魔の取引」であるように思われる。むしろ著者が言うように、「ゴタゴタの不可避性に対する認識と、それゆえの我慢強さ」(p.117)をわれわれ一人ひとりがはぐくむ以外に、この状況から抜け出す手だてはないのだろう。

そのひとつの具体案として、本書が提示しているのが、「ウェーバー新自由主義への防波堤として読む」という、旧来のウェーバー研究者が聞いたら腰を抜かすような方法である。たしかに、かつてウェーバーは、近代官僚制を「鉄の檻」と呼んで批判した。しかしその後の社会の変化、特にバウマンが「リキッド・モダニティ」と呼ぶ現代社会の状況は、そもそもウェーバーの時代と前提条件が異なるのであって、現代にウェーバーの思想を展開するなら、その結果はまったく違ったかたちでみえてくるはずなのだ。

その具体的な内容が本書の第5章でいろいろ書かれているのだが、なかで面白いと思ったのは、ポリットとッブーカールトの提唱する「ウェーバー型国家」という発想だ。そこでは、「ウェーバー的エレメント」として、新自由主義への対抗原理として以下の4点を掲げている(以下1〜4は本書p.144より引用)。

1 グローバル化、テクノロジーの変化、推移する人口統計、そして環境の脅威といった新たな問題の解決への主要な推進主体として国家の役割を再確認すること

2 国家装置の正当化エレメントとして代議制デモクラシーの役割を再確認すること

3 市民と国家の関係に関する基本原理を保持する点で行政法の役割を再確認すること

4 特徴的な地位、文化、条件をそなえた公共サービスの理念を保持すること

著者も認めているとおり、ぜんぜん「ウェーバー的ではない」4項目なのだが、注目すべきは、こうした国家像が、「対立を含んだ形式合理性」という、まさにウェーバーが重視した要素を前提としていることである。それはまた、多様性と寛容というもうひとつの国家に対する要請にも応える、新たな官僚制の実現にもつながってくるであろう。

「こうした意味での官僚制は、デモクラシーと対立するというよりは、むしろそのための不可欠の条件をつくる。NPM(引用者注:新公共管理)がデモクラシーによるコントロールを手放すものだとするならば、NWS(引用者注:新ウェーバー型国家)は、市場の合理性―ウェーバー的な思考においては、それは諸合理性の中の一つにすぎない―を一部において犠牲にしても、デモクラシーのある側面を擁護しようとするものなのである」(p.146)

なお、著者は1969年生まれの、まさに気鋭の政治思想学者。著作を読むのは本書が初めてだが、なかなかの切れ味の持ち主で、今後の展開が楽しみな人物だ。マスメディアを中心に、底の浅い「公務員批判」が幅を利かせるなか、ここで展開されている内容はあきらかにレベルが一段も二段も違う。公務員としても、自分の立ち位置を思いもかけない高みから見せていただいた気分で、たいへん勉強になった。今後の公務員批判は、すべてこの水準を出発点にして行っていただきたいものであるが、まぁ今のマスメディアや評論家連中のレベルでは、ちょっと無理でしょうねえ……。

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