自治体職員の読書ノート

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【826冊目】渡辺京二『日本近世の起源』

外国人の目から見た幕末の日本をひたすらに綴った『逝きし世の面影』。その著者が、明治になって失われた「日本」はどのように成立したのかを、今度は戦国時代から江戸時代への移り変わりの中に浮かび上がらせる一冊。

本書が論敵と看做しているのは、網野善彦を始めとする、著者曰く「左翼史観」の歴史家たち。つまり、中世の村や楽市などにおける「自由」を大きく取り上げ、その自由が徳川幕府下において抑圧されたとする歴史観である。これに対して、著者が提示するのは、アナーキーで無秩序な中世〜戦国時代の日本社会の実像。そこでは、村の境界や水利をめぐって村同士が戦争を行い、戦争に負けた村は略奪の上、人々は捕えられて奴隷として売り飛ばされ、上級政府が機能していない状況の下、自力救済という名の実力行使が横行していた。確かに「自由」は存在したが、それは村単位の自由であり、しかも無秩序の裏返しの自由にすぎなかった。

こうした状況を人々が自ら望んでいたというわけでは、ない。むしろ民衆の間には、「領民を敵の殺戮に任せるような領主は、年貢を取る資格もない領主失格者」という考え方があったという。戦乱の世の中にあって、領主は民衆の庇護者であり、民衆の側も「強い領主」を求めた。その期待に応えたのが、信長や秀吉であり、そして天下統一を成し遂げることで戦乱そのものを終結させた家康であった。

このように見ていくと、徳川幕府を抑圧者として見る見方は180度転換する。むしろ自由という名の無秩序のなかでホッブズ的な闘争状態にあった当時の民衆にとって、待望していた秩序をもたらしたのが徳川幕府であった。それに、徳川幕府自体も、村の自治そのものを剥奪したわけではなかった。むしろ当時の自治的村落自体の枠組みは温存した上で、それを国家全体の大きな統治構造に組み込んだのである。排除したのは暴力による自力救済のみであった。だからこそ、幕末に日本を訪れた外国人は、穏やかで幸福そうな、貧しくとも明るく礼儀正しい庶民の姿に驚いたのであろう。

私自身は、本書のいう「左翼史観」と著者の言い分のどちらが妥当かはわからない。というより、網野氏が描きだしている中世民衆の「自由」にも光と影があり、網野氏はそれまでの暗い中世観へのアンチテーゼとしてその「光」を強調したのに対し、渡辺氏はその蓄積を踏まえた上で、その「闇」を本書で描いたのであろう。両論は、少なくとも途中までは、ぶつかり合うよりむしろ補完しあっているのではなかろうか。