【2076冊目】吉本隆明・糸井重里『悪人正機』
タイトルは親鸞の有名な言葉だが、別に親鸞の解説本ではない。また、二人の名前が並んでいるが、対談本ではない。糸井重里がテーマ出しと前フリをして、吉本隆明がひたすら語るというスタイル。一人語り風インタビュー、といったところか。
吉本隆明は、文章を書くとかなり小難しいだけに、話し言葉になるとこんなにもわかりやすくてストレートな物言いになるのか、とびっくりした。逆説的といえばずいぶん逆説的だが、ある意味人生の真実を衝いた言葉が並んでいる。思想や哲学というのとはちょっと違うが、頭だけではなく実体験をもとに考え抜かれた、大人のための人生論、といったところか。
印象に残ったフレーズだけでも挙げれば数えきれないが、抜き出しように少々アレンジして、章ごとにピックアップしてみよう。前後の文脈がないので突拍子なく感じられるかもしれないが、それでも琴線に触れるくだりがあるはずだ。
《「生きる」ってなんだ?》
→「死は自分に属さない」
《「友だち」ってなんだ?》
→「人助け」なんて誰もできない
《「挫折」ってなんだ?》
→挫折なんて、しようと思ってもできない
《「殺意」ってなんだ?》
→どの辺までを正常とするという範囲を、もっと拡げなければいけないんじゃないか
《「仕事」ってなんだ?》
→子供って、一日二四時間、全部遊びじゃないですか。生活イコール遊びなんですよ。あれが理想でね。
《「物書き」ってなんだ?》
→本当のプロの詩人と言える人は、谷川俊太郎と、吉増剛造と、この前死んだ田村隆一と、この三人しかいねえかな。
《「理想の上司」ってなんだ?》
→会社において、上司のことより重要なのは建物なんだ
《「正義」ってなんだ?》
→「清貧の思想」とか、そういうものはダメなんです。人間は、そういうふうには生きられない生き物なんですから。自分ばっかり正しいと思いこんでる人たちは、まずそのことを理解しないといけません
《「国際化」ってなんだ?》
→未来がだんだんはっきりしてくるっていうことと、過去がはっきりしてくることは同等じゃないかなと思うんです
《「宗教」ってなんだ?》
→宗教には幅とか領域とか広さっていうことの他に、深さっていう概念が通用する。しかし、唯物論はもう、非常に平らな表面だっていうことですね
《「戦争」ってなんだ?》
→真剣に考える自分の隣の人が、テレビのお笑いに夢中になっていたり、遊んでいたりするってことが許せなくなってくるっていうのは、間違っているんです
《「日本国憲法」ってなんだ?》
→核戦争が起こって、核兵器をバサッと落とされたらっていうことを前提とする議論っていうのは一切成り立たない
《「教育」ってなんだ?》
→人間が人間としてあることの根本、「こころ」とか「魂」っていうものがちゃんとできたぜって時期は、ヨーロッパで言えばギリシャ・ローマ時代くらいまででね。そこいらへんで、だいたい終わってんだよ。あとは枝葉を広げてるだけなんでさ
《「家族」ってなんだ?》
→今、日本で家族って問題に即して言えば、結局「家庭内暴力」の状態が、いちばん一般的で普遍的な状態だってことです
《「素質」ってなんだ?》
→結局、靴屋さんでも作家でも同じで、一〇年やれば誰でも一丁前になるんです。だから、一〇年(毎日)やればいいんですよ。それだけでいい
《「名前」ってなんだ?》
→「名前」というのは、その人の相当に根源的な部分に関わっているものがあることを意味しているものなんじゃないのかな
《「性」ってなんだ?》
→現在の世の中に「昔返り」というか、昔の、つまり母系的な性のかたちが、また少し強まってきてる
《「スポーツ」ってなんだ?》
→僕は落合ってのは、王や長嶋とかよりはるかに上の人だろうって思ってるんです
《「旅」ってなんだ?》
→旅に出ることや貧乏旅行をすることは、それ自体、威張れるようなことでもなんでもないんでさ
《「ユーモア」ってなんだ?》
→ユーモアを身につけなきゃ、みたいなことは考える必要もない
《「テレビ」ってなんだ?》
→テレビを見ることについては、いろいろ考えてみたんだけど、結局、自分で、これはそういうことなんじゃないかとわかったのは、さみしいからっていう、それだけのことですね
《「ネット社会」ってなんだ?》
→いろんな人が、自分の専門というか担当の分野の問題を、最も重要なことのように言うわけですけど、そのへんのことっていうのは、実は枝葉なんですよ。根本のところっていうのは、あくまでも人間の心とか魂とかに関わることだけなんです
《「情報」ってなんだ?》
→水が「酸素と水素からできている」ように、分析したい問題を「水」として、「酸素と水素」にあたる情報が何なのかをうまく見つけることができれば、どこの国のこんな問題だって、だいたい当たるんじゃないか
《「言葉」ってなんだ?》
→要するに言葉っていうのはね、全部根拠がないんですよ
《「声」ってなんだ?》
→元の元を辿ること、つまり、もっと前もっと前と、物事の根源を突き詰めていくというのが、僕が彼(折口信夫)の本から学んだことですね
《「文化」ってなんだ?》
→だいたい、日本みたいな先進国で文化を支えるのは、もう週刊誌的、つまり第三次産業的な領域でしかないです
《「株」ってなんだ?》
→要するに、国家の呼吸管理がある程度必要だっていう部分と、全部を国家の呼吸にしてたら行き詰っちゃったよ、という部分が、両方から近づいているということですね
《「お金」ってなんだ?》
→お金の物神性、得体の知れない部分に触ってないような理屈は認めらんねえよって思いますね
【2075冊目】上野千鶴子『ケアの社会学』
書くべきこと、紹介したいことはたくさんあるのだが、今日はなんだかそういう気になれない。この本を単体で「まとめる」よりむしろ、この本に書かれていたことを分解して、滋養にして、それぞれのパーツを他のいろいろなコトと組み合わせていきたい。なぜかこの本を読んで、そう感じた。
感想でもなく、書評でもなく、要約でもなく、そしてそのすべてであるもの。この「読書ノート」とはそういうものだった。だが、一冊を読んで一冊について書くことは、その本のまわりに仕切りをめぐらせる作業になってしまい、本と本をつなぐ有機的関連性みたいなものが損なわれるというマイナス面もあるのである。だからといってすべての関連本、関連情報と結びつけながら書くというのも、このペースだといささかしんどい。
本書についていえば、この本は著者の先行著作である『家父長制と資本制』の後継である。そして、以前ここで紹介した中西正司との共著『当事者主権』ともつながっている。上野千鶴子という思想家の多様な思考の、ひとつの結節点のようになっている一冊だ。
例えば、ケアの値段はなぜ安く、ケアに携わる人々の給料はなぜあんなに低いのか。著者のミもフタもない言い方に倣えば、それは「女の仕事」だからなのだ。もっと言えば、もともと家庭の中で「嫁」や「娘」が担ってきた介護が外部化されたのが介護保険であって、「タダで供給されてきたもの」に値段をつけたのだから、高くなりようがないというワケなのだ。
ジェーン・ルイスはケア労働について『「価値が低い、報われない労働を女性がしている」というより「女性がしている労働」だから「価値が低い」のだ』と言っているという。さらに言えばこの「ケア労働の安さ」への関心自体、『家父長制と資本制』の「なぜ人間の生命を産み育て、その死をみとるという労働(再生産労働)が、その他のすべての労働の下位におかれるのか」という重大な問いかけに結びついている、と著者は言う。
あるいは、著者は次のように「ケアの権利」を掲げてみせる。
「ケアする権利」
「ケアすることを強制されない権利」
「ケアされる権利」
「ケアされることを強制されない権利」
である。このあたりは本書のキーワードのひとつである「当事者主権」と密接につながっている。
ケアは「相互性」をもっている。だがこのことは、ケアする側とケアされる側が(現実問題として)対等であることを意味しない。なぜなら、ケアする側はいつでも「やめる」ことができるのに対して、ケアされる側は、多くの場合「ケアされないこと」を選ぶ余地がないからだ(生命維持に直結するケアはその一例)。この非対称性に「見ないフリ」をしたまま「対等性」を強調することは、欺瞞にすぎない。では、非対称性を丸呑みした上で対等性を追い求めるとどうなるか。その困難な実践例のひとつが、やはり以前紹介した『こんな夜更けにバナナかよ』という本ではないかと思うのだが、どうだろうか。
他にも本書には「協セクター」(「官」でも「民」でも「私」でもない領域)への期待と課題、秋田県旧鷹巣市の先進的事例や富山市の「このゆびとーまれ」の実践、さらには生協による福祉の「経営」の実態について多くのページを割いて詳細に述べており、大変に読み応えがある。日本の福祉の実像を行政、地域、団体等の眼から多面的に再構築した労作だ。本書の最後になって示される「次世代福祉社会の構想」もおもしろく、納得できる(ちゃんとしたものにするためには、財政面の課題をクリアして「高い方にあわせる」ようにしなければならないが)。
一方に家族、一方に地域社会、一方に行政、一方に市場原理。四面楚歌とさえ思える状況をしっかり見つめ、一筋の解決策を示した一冊。未来の福祉社会を憂える人なら、読んでおいて損はない。
家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)
- 作者: 上野千鶴子
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こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち (文春文庫 わ)
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【2074冊目】大野晋・丸谷才一『光る源氏の物語』
『源氏物語』にはどこか苦手意識がある。原文は読んでもワケがわからないし、与謝野晶子の現代語訳も、筋書きを追うのが精一杯で、物語を堪能するところまでは到底たどり着けなった。
本書はそんな『源氏物語』の醍醐味を、たっぷり味わうことのできる一冊だ。単なる解説だけではなく、重要な場面については、原文、丸谷才一による現代語訳がセットになっている。正直、私はこの対談を読んではじめて、源氏の面白さに「気づく」ことができた。それほどまでに私がふがいない読者だった、といわれれは否定はしないが、そんな私に言わせれば、それほどまでにこの対談集が絶品なのだ。
源氏物語は「書かれていない」部分が多い。特に紫式部が「隠した」のが、対談者のおふたりのいう「実事」、つまりはセックスの場面である。だいたい、男と女の関係ばかりをこれほど書きまくった物語が、その肝心な場面をことごとく「伏せて」いるというのがあやしいのだ。この「実事」という補助線を引くことで、あいまいなままになっていた登場人物の男女関係の「決め」の部分がはっきり見え、物語全体のメリハリも効いてくる。ちなみに「実事」という言い方も絶妙で、下品にならず、でも意味ありげなニュアンスは残している。このあたりはお二人の人徳というか、老練というか。
小説としての分析も面白い。だいたい冒頭近くで丸谷氏が語っているように、この物語は「近代小説」「王朝物語」「古代説話伝説」の三層構造になっているのである。だから、西洋の小説が20世紀になってから実験的にいろいろやっているようなことをすでにやっているかと思えば、王朝の文化や慣習を反映したくだりがあり、さらには古代の観念が奥底でうごめいている、というような複雑な仕立てになる。こんな小説、源氏物語以外のどこにあるだろうか。
持ち上げるばかりではない。書き方や人物造形など、痛烈な「ダメ出し」も容赦なく行われている。古典的名作だからといって神棚に奉ることなく、ひとつの作品としての批評が行われているのだ。もっとも、優れている部分への絶賛もたいへんなもので、特に「若菜」「浮舟」あたりの評価は非常に高い。時系列でどんどん読んでいくため、紫式部が作家としての腕前を上げていく一方、老境に達してエネルギーが衰えてくるあたりのダイナミズムも的確にとらえられている。
ここでは取り上げないが、源氏物語に絡めて丸谷氏の文学論、大野氏の日本語論も展開されており、これがまた目からウロコが落ちまくるレベル。文庫本で上下あわせて1,000ページ近い本だが、内容は芳醇、語り口は軽妙、源氏物語の魅力をたっぷり詰め込んだ一冊だ。
【2073冊目】白川静『字書を作る』
「辞書」ではない。「字書」である。
字書に載っているのは一般的な名詞・語句ではなく、「字」すなわち漢字である。それも、ひとつひとつの字の原義に遡り、そこに込められた意味を読み解き、古来からの用例を示すというものだ。漢字が表意文字だからこそできることだろう。
そもそも漢字の原型である甲骨文字や金文には、古代人の観念や思惟がそのまま反映している。それが形を変えて漢字となり、今に残っているのである。それゆえに、漢字を読み解くことで、われわれは数千年前の人々の観念世界を知ることができる。誰かが言っていたが、漢字とは古来からの思念を運ぶ「意味の方舟」なのである。
本書に載っている例から、具体的にイメージしてみよう。「辺」という文字はもともと「邊」と書く(今でも「渡邊」という苗字がありますね)。著者によると、このうち「自」は「鼻」、「方」は架屍(つまり吊るされ、さらされた屍体)であって、「邊」は鼻を上にして屍体を置いて呪禁とするまじない、つまりは髑髏棚を意味したという。おそらく古代の人々は、辺境つまり外部との境界にこうした髑髏棚を置いて、悪しきものの侵入を防いだのだろう。こうした意味を知って初めて、「辺」という文字に込められた意味を知り、さらには当時の人々の世界観や文化慣習を知ることができるのだ。
こうした解説を拾い読むだけでも本書は愉しいのだが、読み終えてあらためて驚くのは著者がたった一人で三冊に及ぶ大部の「字書」を作り上げたということだ。しかも最初の字書である『字統』に着手したのがなんと73歳。1年でこれを仕上げ、2年後には2冊目の字書『字訓』を、最後の『字通』までには13年を要したというからものすごい。
本書はその冒頭に掲げられた文章を中心に「字書」をめぐる論考を収めた一冊。特に冒頭の「文字学の課題」は、これまでの辞書・辞典類にあきたらず単身、前人未到の領域に挑む著者の思いがにじみ出ており、胸が熱くなる一文だ。ぜひご一読を。
【2072冊目】寺本晃久・岡部耕典・末永弘・岩橋誠治『ズレてる支援!』
ズレてる支援!――知的障害/自閉の人たちの自立生活と重度訪問介護の対象拡大
- 作者: 寺本晃久,岡部耕典,岩橋誠治,末永弘
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どんな本も万人を対象にすることはないが、それにしてもこの本、さすがにちょっとマニアックというか、対象があまりにニッチ過ぎるかもしれない。だって「知的障害者への重度訪問介護」がテーマといっても、ほとんどの人はピンとこないでしょ? まあ、重い知的障害のある人が地域で一人暮らしをすることについての本と言えば、少しは見当がつくだろうか。
ちょっと前まで(実態上は、私の勤務自治体も含めた多くの地域では今でも)、重度の知的障害者の住む場所といえば、親との同居か、親が高齢になったり介護ができなくなったら、入所施設かせいぜい重度向けのグループホーム、と相場が決まっていた。そんな中で、重度訪問介護という制度の対象が、重度の身体障害者に加え、一定の条件を満たした知的障害者などに拡充されたのだ。これによって、ヘルパーを入れながら、自宅・単身で生活する可能性が大きく広がった。
施設やグループホームは、多かれ少なかれ、事業者側の決めたルールや枠組みに利用者は従わなければならない。だが、ヘルパーとなると、基本的には一対一の関係だ。そして、そうした関係になってはじめて見えてくるものがある。
それが、まさに本書のタイトルにある「ズレ」なのだ。ただし、それは「一方が正しくて、もう一方がそこからズレている」ということではない。どっちが正しいということではなく、単に「利用者である障害者と、支援者であるヘルパー」のモノの見方や考え方、さらには大げさにいえば「世界観」がズレているのだ。
だが、ズレたままでは適切な支援はむずかしい。そこで出てくるのが「おりあう」ことの重要性だ。どこで「おりあう」かは、相手の立ち位置がどのあたりであって、自分自身はそれに対してどこに立っているかによって違ってくる。ということは、支援者は単に相手のズレだけではなく、自分自身のズレにも自覚的でなければならないのである。
例えば、可燃ゴミと不燃ゴミをいつになっても分別できなかった人は、ゴミ箱の位置を入れ替えるだけで的確にゴミを分けて捨てられるようになった。駐車場に車を停めてエレベーターに乗ると必ず最上階まで行く「こだわり」があった人は、最初から車を最上階のフロアに停めるようにしたところ、単に降りるだけで満足した(その人は、最上階まで上りたかったのではなく、最上階から降りたかったのだ)。
こんな解決なら簡単だ、と思われるかもしれない。だが、「この人はゴミを分けられない人」「この人はヘンなこだわりがある人」と決めつけていては、こうした工夫はでてこない。相手だけでなく自分自身の認識や理解のズレを自覚し、認めていかなければならないのだ。
そう考えていくと、(安易なマネは危険だが)障害者以外へのアプローチでも、こうした視点は大事である。認知症のある高齢者、発達面に課題のある子ども、ひきこもりの青年……。たしかに誰もが「ズレて」いる。だが、それを見ている私たち自身も、必ずや「ズレて」いるのである。