自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1433冊目】斎藤環『原発依存の精神構造』

原発依存の精神構造―日本人はなぜ原子力が「好き」なのか

原発依存の精神構造―日本人はなぜ原子力が「好き」なのか

なるほど。精神科医が「東日本大震災」や「原発事故」を読み解くと、こういう話になってくるのか。

本書は、著者が2011年9月から翌年5月にかけて『新潮』に連載した文章をまとめた一冊。書籍化にあたりほとんど手を入れていないとのことだが、そのわりには内容が相互に連関し、そして一貫している。もちろん細かく比べればいろいろ齟齬や揺れは出てくるのかもしれないが、大筋においてはほとんど「ブレて」いない。

著者の基本的なスタンスは「脱原発」である。その言明も、理由も、本書の中には書かれている。しかし、それとはちょっと別の次元で、著者はいろいろと言いたいことがあるようだ。その内容について、今回は本書の展開をやや逆倒しつつダイジェストしてみたい。

そもそも日本人にとって、原子力とはどのようなものだったのか。言うまでもなく、最初の「出会い」はヒロシマナガサキだ。2発の原子爆弾で、それぞれ約14万人、約7万人が命を奪われた。次は第五福竜丸事件。ビキニ環礁の水爆実験で日本のマグロ漁船が被曝し、無線長が半年後に死亡した。

ぐっと最近になると東海村JCO臨界事故がある。事故被曝で死亡者を出した最初の事件だった。その次の「大物」が福島第一原発だ。

こうした経過を並べた上で著者が指摘するのは、日本人と原子力との出会いが「きわめて外傷的」であったということだ。反復する外傷体験は、しかし必ずしも「拒絶」「拒否」に結びつくとは限らない。むしろその体験を正当化し、自分のなかで消化するためにも、似たような体験をむしろ積極的に受け入れてしまうことが稀ではない。

そして、このことは国家単位、国民単位でもあてはまるらしい。じっさい、日本人は「唯一の被爆国」でありながら、原子力の「平和利用」をある種積極的に受け入れてきた。否、いまもって一部の人々は、原子力の「魅力」に憑かれたままであるように見える。

これを著者は「原子力の享楽」と呼ぶ。「繰り返される外傷体験、なすすべもない受傷体験は、制御できない享楽として、繰り返しわれわれを惹きつける。われわれはその享楽を、理論上は所有できるはずだった。しかし幾多の想像的、象徴的な障害が”享楽の所有をはばむ」(p.170)

ここでいう「想像的」「象徴的」はラカンの「現実界」「象徴界」「想像界」を踏まえた議論であるため詳細は省くが、ここで問題なのは、この享楽が、実は制御できず、そもそも理解さえできないシロモノであるということなのだ。例えば、低線量被曝についていろんな情報が氾濫しているが、情報が増えれば増えるほど、かえって混乱が深まり、何が本当なのか分からなくなっているのが現状だ。

さて、われわれはこうした理解不能なものを前にしたとき、どうするか。一つの試みが、これを「象徴化」することだ。福島を「フクシマ」などと命名するのは、その典型的な例だ。しかしこうした不適切な象徴化は、そこに反復回帰する出口のない通路を開いてしまう。原子力へのトラウマを抱えつつ、どうしたわけかそこに戻ってきてしまうのだ。

だからこそ著者は「フクシマ」の上に線を引いて「フクシマ」と表記する。それによって「フクシマ」の象徴化をいわば「ブロック」しているのだ。だから、本書を読んでいると、「フクシマ」という語が出てくるたびに上に線が引かれている。その都度私などはギョッとさせられるのだが、同時に思い出すのだ。ああ、「フクシマ」というこの表記自体が、言うなればひとつの罠なのだな、と。

では、象徴化の罠から抜け出すためにはどうすればよいか。著者が提示するのは「換喩」を使うこと。これは隠喩とは異なり、「一つの対象を、その本質や意味とは無関係に、隣接性や類似性によって処理する記号操作」(p.89)であるという。なんだか小難しい定義だが、要するに「ダジャレ」とか「連想ゲーム」のことである。

換喩を行うには、その言葉の意味を離れた「ズレ」や「遊び」の感覚が必要だ。著者はその実例を、震災後に書かれたいくつもの小説に見ていく。そして、そこにあるのは無限のパラフレーズであり、そうした試みを通した(無自覚的な)「象徴化」からの離脱のプロセスにほかならないと指摘するのである。

こうした著者の分析や展開がどこまで妥当なのか、正直よく分からない部分もあるのだが、しかし「フクシマ」というカタカナ表記や、あるいは本書中でも触れられているような「絆」という言葉の濫用がどこか危なっかしいものを持っているということは、なんとなくわかる気がする。

そして、原子力と日本人の関係が相当にねじくれ、ゆがんでいることは良くわかった。そういえば(本書でも取り上げられているが)日本には「原子力」がらみの人気者がやたらに多い。だいたい、露骨に原子力を想像させる「鉄腕アトム」はいまだにヒーローだし、水爆実験によって生まれたゴジラは後に正義の味方になってしまった。なんと機動戦士ガンダムもトリウム原子炉が動力源だという。でも一番びっくりしたのは、ドラえもんに小型原子炉が搭載されているという衝撃の「事実」であった。う〜ん、そうだったのか。