【1228冊目】カズオ・イシグロ『日の名残り』

- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2001/05
- メディア: 文庫
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すばらしい小説である。何の前フリもなしにいきなりこんなことを書かれても困るかもしれないが、とにかくすばらしいのだ。まあ、騙されたと思って読んでほしい。
主人公は、英国の名家ダーリントン家で、生涯を執事として過ごしてきたスティーブンス。敬愛するダーリントン卿はすでに亡く、その後にダーリントン邸のあるじとなったのは、アメリカ人のファラディだった。ファラディに勧められて休暇を取ったスティーブンスは、かつての同僚だった女中頭ミス・ケントンに会おうと、英国の田園地帯にフォードを走らせる……。
地味と言えば、これほど地味な小説もない。老齢の執事(私は読みながらずっと、「バットマン」に出てくるブルース・ウェインの執事アルフレッド・ペニーワースを想い浮かべていた)が平和な田園地帯を車で走り、行きずりの人々と交流しながら、かつてのダーリントン家の繁栄に思いを馳せるという、それだけといえばそれだけの小説だ。アクションもミステリーもなく、ラブロマンスも(ほとんど)ない。
それなのに、読み始めると引き込まれて止まらなくなる。執事スティーブンスの格調ある一人語り、光の粒がひとつひとつ輝いているかのような美しい田園風景の描写、そして第二次世界大戦中に外交の裏舞台となったダーリントン・ホールで裏方を務めた、輝かしき執事人生の思い出……。そこに、失われつつある旧き良き英国への思いと、執事として「品格」を保ちつつ人生の夕暮れに差し掛かったスティーブンスの生涯が、ぴたりと重なり合う。
しかも、スティーブンス自身もまた、この小旅行で変わっていく。尊敬していたダーリントン卿の本当の姿に向き合い、ミス・ケントンの自分への思いを知り、そしてそうしたことに見向きもせず一筋にあゆんできた執事という職業、いや執事という人生に、おそらくは初めて疑問を抱くのだ。そして、そんな旅の終わりに出会った男のセリフが、これ以上ない説得力で胸にしみわたる。特に、そこまでにスティーブンスの人生を追体験したあとで読むと、じんとくること請け合いである。
「いいかい、いつも後ろを振り向いていちゃいかんのだ。後ろばかり向いているから、気が滅入るんだよ。何だって? 昔ほどうまく仕事ができない? みんな同じさ。いつかは休むときが来るんだよ。わしを見てごらん。隠退してから、楽しくて仕方がない。そりゃ、あんたもわしも、必ずしももう若いとはいえんが、それでも前を向きつづけなくちゃいかん」
「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。わしはそう思う」
自分が定年を迎えたら、この本はぜひ読み返したい。その時、私はスティーブンスのように、自分の人生を振り返りつつ、引退後の人生に楽しみを見いだせるだろうか? 夕方がいちばんいい時間なんだ、というこのセリフに、心からの共感を覚えることができるだろうか……。