自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1059冊目】ブレーズ・パスカル『パンセ』

パンセ (中公文庫)

パンセ (中公文庫)

もう何がキッカケだったかも忘れたが、ある日突然、この本を読もうと思い立ち、半年くらいかけてちょっとずつ、かじるように読んできた。

奇妙な本である。600ページを超える本文は、924の断章で構成されており、それぞれの断章間に、特に論理的なつながりがあるわけではない。もっとも、こうした構成はパスカル自身が意図したものではないらしい。解説によると、本書は実は39歳で亡くなったパスカルの遺構集であり、死後に残された下書きや覚書きをテーマごとに分類し、通し番号をつけて一挙に並べたものなんだそうだ。

だから断章にはかなり長いものと短いものが混在しているし、同じようなフレーズがわずかな言い換えで繰り返しでてきたりもする。執拗な引用が続くと思えば、突然、こちらの胸を切り裂くような鋭い警句がでてきてびっくりする。

「人はふつう、自分自身で見つけた理由によるほうが、他人の精神のなかで生まれた理由によるよりも、いっそうよく納得するものである」

「著作するときに、最後に考えつくことは、何を最初におくべきかを知ることである」

「君は人からよく思われたいと望んでいるのか。それなら、そのことを自分で言ってはいけない」

「あまり早く読んでも、あまりゆっくりでも、何もわからない」

そもそも、パスカルは天才的な数学者、科学者として知られている(「パスカルの定理」や「パスカルの三角形」が有名ですね)。それが後年、キリスト教信仰、とくに妹が入ったポール・ロワイヤル修道院の立場に傾倒したことから、この奇妙な本ができあがった。どうやらパスカルがやろうとしたのは、論理や論証といった科学のメソッドを駆使した、キリスト教の「証明」であったようなのだ。しかし、39歳で訪れた死によって、その「証明」をひとつなぎの論証の連鎖として行うには至らず、思索の断片としての断章だけが残された、というワケだ。

パスカル自身がそういう構成にしようと思っていたかどうかはわからないが、本書は人間性についての考察からはじまる。人間の尊さと弱さについての鋭い指摘が並ぶ。面白いのは、人間の「はかなさ」や「弱さ」といった、いわば仏教でいう一切皆苦、日本でいう無常観のようなところに、パスカルが行きついていると思えること。

「今ある快楽が偽りであるという感じと、今ない快楽のむなしさに対する無知とが、定めなさの原因となる」

「この世のむなしさというこんなに明白なことがあまりにも少ししか知られていないので、権勢を求めるのはばかげていると言うのが、奇妙で意外なことに聞こえるほどである。これは驚いたことだ」

「この世のむなしさを悟らない人は、その人自身がまさにむなしいのだ。それで、騒ぎと、気を紛らすことと、将来を考えることのなかにうずまっている青年たてみなを除いて、それを悟らない人があろうか。だが、彼らの気を紛らしているものを取り除いてみたまえ。彼らは退屈のあまり消耗してしまうだろう。そこで彼らは、自分の虚無を、それとは知らずに感じるだろう。なぜなら、自分というものを眺めるほかなく、そこから気を紛らすことができなくなるやいなや、堪えがたい悲しみに陥るということこそ、まさに不幸であるということだからである」

だがパスカルは、こうした「人間のみじめさと弱さ」をそのまま受け止めるだけではなく、そこをいわば踏み台にして「キリスト教の証明」に乗り出した。本書の後半はそうしたキリスト教の正当性を論証する断章に満ちている。ここのところは、宗教を論理で突き詰めていくという思考形式に慣れない日本人のひとりとしては、正直、少々ヘキエキするものがある。

しかし、考えてみればここに書かれている論証こそが、近代ヨーロッパ社会を構築したロジックの一端なのであって、その流れはおそらく、現代の欧米にも続いているはずなのだ。佐藤優的に表現すれば、近代西洋文明の根底をなすキリスト教の内在論理を読み解くことは、現代欧米諸国の行動原理を理解するための必須の行為であって、本書はそのための「必読書」のひとつというべきであろう。そこにおそらく、現代において『パンセ』を読む意義があるはずだ。その流れは必ずや、アメリカのビンラディン殺害の論理にも行き着いているはずなのだから……。

「人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない」