自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2247冊目】中井久夫『世に棲む患者』

 

世に棲む患者 中井久夫コレクション 1巻 (全4巻) (ちくま学芸文庫)

世に棲む患者 中井久夫コレクション 1巻 (全4巻) (ちくま学芸文庫)

 

 

「私は、いわゆる”社会復帰”には、二つの面があると思う。一つは、職業の座を獲得することであるが、もう一つは、”世に棲む”棲み方、根の生やし方の獲得である。そして、後者の方がより重要であり、基礎的であると私は考える」(p.24)

現場の実践をもとに、当時すでに50代前後の精神科医であった著者が綴る、治療論、疾患論、患者論。30年ほど前に書かれたものばかりだが、その視点の持ち方には、今なおハッとさせられるものがある。

例えば、冒頭の引用である。精神疾患を抱えた人に限らず、人が「働く」ことができるかどうかは、実はそもそもの生活基盤、社会的基盤によるところが大きい。そのありようを、著者は「オリヅルラン型のライフ・スタイル」と呼ぶ。オリヅルランと言われてもちょっとわかりにくいが、同心円状に行動範囲を広げていくというよりは、中心地点(基地)からツルをのばしていくような生き方、ということだ。

この「ツルの伸ばし方」にその人の個性が出る。それを著者は「非公式的であるほうがよい」という。公式的、世間一般的な、つまりはいわゆる「ふつうの」生活、「ふつうの」場所ということを意識しないほうがよい、ということだ。

仕事に関しても、こうした「枝の伸ばし方」が大事になってくる。面白いのは、選ばれる仕事は、もともとの志望から「少し斜めに下った」ところで安定することが多い、という指摘。理想から少し下がったところに妥協点や落ち着きどころを見出し、そこに安定することが、つまりは社会に適応するということであり、「世に棲む」ための大事なポイントなのである。「ほんとうの自分」「理想の仕事」を追い求めて右往左往する人たちに聞かせてあげたい。

第2部はいわば「各論」だ。統合失調症、アルコール依存、妄想症、境界例強迫症と、気になるトピックが並んでいる。ちょっと意外なのは「うつ病」がそれほど大きく取り上げられていないこと。現代の精神科では主役といっていい病気なのだが、このあたりは時代の違いもあるのかもしれない。

 

【2246冊目】山本兼一『いっしん虎徹』

 

いっしん虎徹 (文春文庫)

いっしん虎徹 (文春文庫)

 

 

甲冑鍛冶から40代で刀鍛冶に転向した長曾祢興里こと「虎徹」。後に伝説の刀鍛冶として歴史に名を残した男の日々を描いた小説。

まず驚くのが、「鉄」に関するテクニカルな説明の多さと、細かさ。前半の「たたら場」における製鉄のシーンから、刀を生み出す鍛冶の技まで、とにかく情報量が多い。にもかかわらず、読んでいてまったく退屈しないのは、なんといっても著者の文章のもつ迫力ゆえだろう。

一方で、刀を鍛えることが単なる技術の優劣だけでは決まらない、というのが、刀鍛冶の奥深さを感じさせられて面白い。特に、興里が最初に鍛え、自信たっぷりに披露した刀へのボロクソの批評。「刀が怒っている」「切れろ切れろの気持ちが迸り過ぎておる」。だが、そうした「強さ」は、実はもろいのだ。それは刀だけではなく、人間にも通じることである。

本書はそんな刀鍛冶の、精神の成長譚である。それはまた、中年に達した興里が、「虎徹」として生まれ変わるプロセスを描いた再生の物語でもあろう。そう考えれば、本書の内容は現代の「中年での転職・起業」にも通じる要素があるように思う。大企業ならぬ幕閣相手に虎徹が見せる意地と矜持など、現代モノなら池井戸潤あたりが書きそうなテーマであろう。

【2245冊目】西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』

 

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (角川文庫)

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (角川文庫)

 

 

生まれ育った漁師町で触れた「魚の匂いのするカネ」。美大予備校時代、50社以上に売り込みをかけてやっともらった、カット1枚数百円のギャラ。ギャンブルの果てにつぎ込んだ「マンション一室分のカネ」に、FXで失った「画面上の一千万円」・・・・・・。

まさに、カネを通して人生が見えてくる。読んでいてもっとも凄みを感じたのは、幾多の経験によってはぐくまれた、著者の「カネ」との距離感だ。カネをないがしろにしているわけでは、もちろんない。だが、カネに執着しているかと言われれば、それもちょっと違う気がする。カネとうまく付き合いつつ、ちょっと冷めた距離を置いている、という感じ。これ、なかなかできることではない。

例えば「自分がやりたいことがわからない」という人に対して、著者は「「カネとストレス」「カネとやりがい」の真ん中で探してみてはどうか、と提案する。給料はよくてもストレスフルな仕事と、給料は悪いがやりがいがある仕事。その両極の間に、「落としどころ」を見つけるのだ。なにがなんでもカネ、というわけではなく、カネなんてどうでもいい、とも言わない。バランスが良いのである。

別のところでは「お金とは人間関係のこと」とも書いている。例えば、食事に行ってワリカンにするか、どっちかがおごるか。貸してくれと言われて、カネを貸すか。借りた金を返すかどうか。損したくないと思ってばかりいると、人はズルくなる、とも言っている。当たっている、と思う。

カネの力。カネの魔力。だが、カネと付き合わずに人生を送ることはできない。だったら、正面からカネとの付き合い方を考えてみよう。本書はそのための、絶好の入口になるはずだ。

【2244冊目】ダニエル・E・リーバーマン『人体600万年史』

 

 

 

 

 

 上の画像は文庫版だが、読んだのは単行本のほう。念のため。

さて、本書でもっとも驚いたのは、次のくだり。

 

「今日の人間を苦しめている病のかなりの割合は、進化的ミスマッチだということになる。なぜならそれらの病は私たちの身体の大昔からの生物学的仕組みと同調しない、近代的な生活様式によって発生もしくは悪化させられているからである」(上巻p.263)

 

 

びっくりしたのは、こう書いた後で著者が列挙する病名。にきび、アルツハイマー病、喘息、水虫、一部のがん、虫歯、便秘、うつ病、2型糖尿病、緑内障痛風、痔、高血圧、腰痛、骨粗しょう症メタボリックシンドローム胃潰瘍、エトセトラ、エトセトラ。まあ、感染症以外の病気のほとんどが登場するといっても過言ではない。われわれがこれらの病気に苦しめられているのは、著者のいう「進化的ミスマッチ」によるものであり、「ディスエボリューション」なのである。

ここで「ディスエボリューション」とは、「進化の有害な形態」のこと。進化は、通常、環境に対する適応を生み出す。だが、それは数百万年をかけて徐々に起こるものであり、現代のような急激な変化には対応できない。むしろ、病を引き起こす環境要因が次世代にそのまま伝わることで、世代間の「有害なフィードバックループ」(要するに「悪循環」)が生じることさえあるという。ディスエボリューションの一例だ。

本書は、前半で人類の進化のプロセスをたどり、後半では、進化の結果到達した人間の身体と、環境の変化のミスマッチをひとつひとつ取り上げていく。例えば、虫歯である。当然ながら、虫歯そのものは遺伝しない。だが、「虫歯になりやすい食生活」は、親から子へと引き継がれる。かくして虫歯は親から子へと承継されるのだ。

人間という「生物」にとって、現代の文明社会はきわめて有害で不適応なものであるらしい。椅子に座ること。本を読むこと。靴を履くこと。こんな「当たり前の行為」と思えるようなことさえ、数百万年という生物学的単位でみれば極めて異常な行為なのである。

だからといって、いまさら原始時代に還ることはできないし、望ましいともいえない。実際、文明の進歩は多くの感染症を駆逐し、ミスマッチと言われようが、かつては考えられなかったほどの快適な生活と長い寿命をもたらした。おそらく大事なのは、私たちが「生物」であるということを、時々思い出すこと。別の本のところでも書いたが、時折でよいので「フィジカルな存在」として自分を自覚することなのだ。

ついでに、進化に関する忘れやすいポイントをもうひとつ。進化とは、環境に適応した変異が次世代に引き継がれることの積み重ねである。ということは、子どもを産んだ後の私たちがどうなろうと(子育てが終わった年代になればなおさらだ)、進化論的には知ったことではないのである。したがって、中高年の病気は、今後いかに人類が進化したとしても解消するとは考えにくいのだ。

再開予告

気づいたら1年以上の放置となっていた。これまでも半年程度「お休み」することはあったが、われながら1年は長い。さすがにもう休止か、と思われている方も多いかもしれない。

思えば10年の長きにわたり、「本を読んで、その本について書く」ことを繰り返してきた。冊数にして2200冊以上だから、ずいぶん続いてきたものだと思う。これだけ同じことを繰り返していると、なんとなく見えてくるものがある。「読む行為」が「書く行為」にどのようにつながっているかということを体感できたのが、何といっても大きい。単なる要約ではなく、感想文でもない「読書ノート」というスタイルだったのも良かったのだろう。ヘンに書き方を決めなかったので、自分の読書経験がそのまま流れ出てくるような形で書くことができたのだ。そうでなければ、たぶん10年も続かなかったと思う。

一方、この1年間は「読む行為」を「書く行為」に転換することなく、ひたすら「読み」に徹してきた。これによって見えてきたものも、また多かった。「書く」ことを前提にせずに読む場合、自分の中の「本の残り具合」がどう変わるか。それが1か月経ち、半年経ち、1年経つとどう変わってくるか。以前書いた「読書ノート」から、どれくらい読んだ本の内容を再生できるか(意外に記憶を喚起することができた)。更新していなくても、毎日250人程度がアクセスしてくれること(このアクセス数は、実は毎日のように更新していた時とあまり変わらない)も意外な驚きだった。「読書ノート」はストックのつもりで書いていたので、これはちょっと嬉しい発見でもあった。

さて、ずいぶん長くなってしまったが、何が言いたいかというと、そろそろ再開しようかと考えている。「読む」と「書く」がつながっていたほうが、自分にとっては読書体験が充実するし、文章力のメンテナンスにもなることがわかってきた。読書ノートを残すことで、読書体験の再生機能も大幅にアップする。読んでくれる「読者」がどれほどいるのかわからないが、まあ、更新してもしなくてもアクセス数が変わらないのだから、これはそれほど気にすることはない。これも気楽な発見であった。

電車に乗っていると、本を広げている人はほとんどいない。ほぼ全員がスマホか、タブレットを覗いている。町の本屋はどこも青息吐息である。本を読むという行為は、このまま廃れてしまうのか。

この「読書ノート」は、かかる風潮へのささやかな抵抗であり、スマホタブレットから本への回路をひらこうという試みである。否、そうありたいと思っている。この画面を眺めているあなたの目が明日は紙の上に書かれた文字を追い、画面をフリックしてるあなたの指先が、明日は本のページを繰っていますように。