自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2228冊目】深井智朗『プロテスタンティズム』

 

 



「ルターの宗教改革は、この時代に突然起こった、唯一の教会改革の運動でも、ひとりの宗教的天才による、新しい宗教運動のはじまりでもなかった。それはすでに数世紀前からはじまっていたさまざまな教会改革運動、正確には再形成運動の一つであった。しかし、この時代の社会の制度疲労が生み出したいくつものほころびや亀裂によって崩壊寸前であった堤防を意図せざる仕方で破壊してしまったという点で決定的であった。時代が変革を求めていたとも言えよう」(p.90)

 

第1に・・・宗教改革(Reformation)は「リフォーム」だった。ルターはカトリックに代わる新たな宗派を生み出そうとしたのではなく、既存の教会制度の壊れかかった部分を「修繕」しようとしたのである。

第2に・・・ルターは聖書をドイツ語訳し、一般の人々に「解放」した。そのため、聖書の解釈が読む人ごとに異なるようになり、宗派が四分五裂した。カトリックでいうローマ教皇のような中心部が、プロテスタントにはない。

第3に・・・ルターの運動は宗教を超えて政治化した。それはルターが望んだことではなかったかもしれないが、結果的にはルターを庇護する勢力を生み出し、改革運動を生き長らえさせた。断罪され、火あぶりになったウィクリフやフスとルターが違うのは、その点だ。

第4に・・・果てしなく分裂するプロテスタントは、結果としてどんどん先鋭化し、過激化した。政治に庇護された旧プロテスタントたちは保守化して国家とくっつき、国家主義的になった。一方、先鋭化したプロテスタントたちはリベラリズムの源流になった。前者はドイツ、後者はアメリカの近代をかたちづくった。

第5に・・・要するに、プロテスタンティズムを抜きにしてヨーロッパやアメリカを理解することはできない。彼らの世界観、社会観、国家間には、宗教が抜きがたく絡みついているのである。

【2227冊目】村瀬嘉代子・津川律子編『電話相談の考え方とその実践』

 

電話相談の考え方とその実践

電話相談の考え方とその実践

 

 



「原則は一回性の出会いであることを自覚して、密度高い意味ある時間であるように感性と思考力を集中する必要があること、基本的に相手を人として遇する、つまりは共感的傾聴の態度が基底に求められることは、一般相談、心理専門相談の別を問わない」(p.16)

 



ツールの発明は、新たな需要を生み出す。電話がない時代、相談と言えば面接か、せいぜい手紙しか方法がなかった。だが電話が出現したことで、「電話相談」という方法が誕生した。そして今や「メール相談」が行われるまでになっている。

本書は「いのちの電話」や災害被災者向けの電話相談、こども相談室の電話相談など、どちらかというと電話相談プロパーの対応者向けに書かれている。だが、その内容は住民対応を行う自治体職員にも十分に応用できる。例えば住民の方から電話で「今から死にます」と言われたら? いつになっても終わらない身の上相談にどう対応する? 切るタイミングを間違えてクレームになってしまったら?

窓口での対応より、ひょっとしたら電話対応の方が神経をすり減らすかもしれないと、最近思うことがある。突然かかってくる。相手の顔が見えない。周囲には相手の声は聞こえないから、クレーム化していても周囲のヘルプが得られない。切らない限り会話が続く。

本書では電話相談の特徴として「かけ手主導」「即時性」「超地理性」「匿名性」「密室性」「一回性」「経済性」「隣人性」を挙げている。こう並べてみると、電話相談にもそれなりのメリットが多いことに気づく。特に緊急性の高い相談、対面相談が苦痛な人の相談、移動に支援が必要な人の相談等の場合、電話相談が望ましい(本書p.18)。

興味深い指摘もある。児童虐待のホットラインで電話相談を始めて驚いたのは、来所相談では少なかった「虐待をしている人からの電話」の多さだったという。上で挙げた特徴でいえば「即時性」「匿名性」が功を奏しているということだろうか。また「面接相談よりも電話相談のほうが、視覚情報が入らない分、コーラー(電話のかけ手)に関するイメージが過剰になり、勝手に逆転移が誘発されやすい」(p.78)との指摘もある。もっとも、ここでいっているのは、精神分析でいう逆転移とまではいかず「相手に対する感情が沸き起こってくる」程度の意味とのこと。電話のほうが、相手との心理的な距離が取りにくいということなのだろうか。

最後に、住民からの長電話に悩まされている人に実践的な目安をひとつ。「電話での悩みの話は20分話すとあとは同じことの繰り返しになるんです。その先をどう誘導してゆけるかは相談員の力量です」(p.165) 受容的に、共感的に、でもしっかりとプロとしての対応を行うにはどうすればよいか。そのための現場でのヒントが詰まった一冊である。




【2226冊目】原田マハ『楽園のカンヴァス』

 

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

 

 

「生真面目な人物像も、不思議なかたちのエッフェル塔や飛行機も。草いきれのする密林も、沈みゆく真っ赤な夕日も。ライオンも、猿も、水鳥も。横笛を吹く黒い肌の女も、長い髪の裸婦も。
 画家の目が、この世の生きとし生けるもの、自然の神秘と人の営みの奇跡をみつめ続けたからこそ、あんなにもすなおで美しい生命や風景の数々が、画布の上に描かれ得たのだ。唯一無二の楽園として」

 



この本は面白かった。アートの世界を舞台に、これほどスリリングでミステリアスで、しかもロマンティックな物語が読めるとは。

舞台は1983年のスイス、バーゼル。伝説的なコレクター、コンラート・バイラーが、所有するアンリ・ルソーの作品の真贋を、二人の鑑定人に依頼する。一人はニューヨーク近代美術館のティム・ブラウン、もう一人は「天才」と称される研究者、ハヤカワ・オリエ。だが、そこにはとんでもない条件がついていた。それは、鑑定勝負の勝者にルソーの作品を譲り渡すこと。そして、鑑定にあたっては、7日間にわたりひとつの「物語」を、一章ずつ読むこと・・・・・・。

そうなのだ。この小説は実は、奇妙な鑑定勝負の中に、もう一つの物語が入れ子になっているのである。しかも、その物語の中で明かされる驚くべき「事情」が、目の前の絵画そのものの見え方を変えていく。そしてクライマックスで待っている、とてつもないサプライズ。二つの物語が融合し、それまで見ていたはずの光景が、まったく違った意味をもって見えてくる。う~ん。アートを主題にした小説として、こんな「見せ方」があったとは。

そして、読んでいる途中、むしょうにルソーの作品が見たくなり、美術館に行きたくなる。本書はアートを扱った小説として一級品であると同時に、アートの世界への魅力的な水先案内人でもあるのである。

【2225冊目】白川静『文字講話2』

 

文字講話 II (平凡社ライブラリー)

文字講話 II (平凡社ライブラリー)

 

 
第六話「原始の宗教」

「われわれの知性として、もし考えられる宗教があれば、禅宗のようなもの以外にはない。禅宗においては、師にあえば師を殺す、仏にあえば仏を殺すという、何物の権威をも認めないところに、自分の生きる道を見出そうとする。それはあるいは究極の宗教ではないか」(p.53)

 


第七話「祭祀について」

「本来は「まつり」はどういうものであったかといいますと、これは神に対してまつるのでありますから、神をまつる場合には、たとえば祝詞を奏上する。それからお供えものを捧げる。それからいろんな行事を行うことによって、神に仕えるわけです。文字の上で一番はじめにそういうまつりを意味することばであったのは、歴史の史という字。われわれは歴史の史という字に使っておりますが、史は本来「まつり」を意味することばであった」(p.61)

 



第八話「国家と社会」

「「見る」というのは、なかなか容易ならぬ見方なのであって、単に眺めるというのではなしに、わが国の古い時代の、国見という場合の「見」ですね。見ることで、それを支配するわけです」(p.129)

 



第九章「原始法について」

「もし悪事をやった場合は、これは本人がやったのではない。本人に仮に宿ったところの悪い霊がやったのである。したがって、その悪い科(とが)とか、妖かしなどによる、そういうふうなものを祓い清めることができれば、それでもとの清らかな、すがすがしい状態が回復できる」(p.166)

 



第十話「戦争について」

「戦争のための破壊兵器は、今その極限に達している。一瞬にして一千万の大都市も廃墟となり、同時に暴発すれば地上は荒地と化するであろう。内戦や紛争は絶えることなく、世界の三大国がその兵器供給の元凶である。〔老子〕第六十九章に「抗兵相加ふるときは、哀しむ者勝つ」という。戦争の悲哀を知るものが、最後の勝利者であるとするのである」(p.211)

 



古代から現代まで、観念の発生と変遷を追うことは難しいが、そのためのカギとなるのが「漢字」である。漢字の読み解きを通して、これほどの発見と思索を得ることができるのか。白川東洋学の精華、二巻目。

【2224冊目】上野千鶴子『老いる準備』

 

老いる準備 介護することされること (朝日文庫)

老いる準備 介護することされること (朝日文庫)

 

 

「強さを価値として持てば持つほど、自分がその能力を失っていくことに耐えられなくなる。価値と現実とのギャップが広がる。あたりまえだろう。それだったら、はじめから自分の弱さに居直って生きていく道はないだろうかというのが、わたしのフェミニズムの出発点だった」(p.20)

 



「なぜ、女のやる仕事、産み・育て・看とるという生命に関わる仕事が不払い労働(タダ働き)なのか。なぜ、女のやる仕事は限りなくタダに近いと評価されるのか。それが、母の人生を見てきたわたしの出発点だった。介護保険は、わたしが専門にしてきた不払い労働論という学問の、二〇年におよぶ成果を生かすことのできる試金石となった。ようやく、女のタダ働きが食える労働に変わるかという、歴史的な実験にのりだせる機会が訪れたのである」(p.200-201)

 
いくつかの講演内容や論考を集めた一冊なのだが、その中で「上野千鶴子の関心は、なぜフェミニズムから(あるいは、それと並行して)福祉に向かったのか」という問いに答えるとすれば、上の2つの引用がその回答になるのではないか。

女性問題と老人問題は似ている、という指摘も本書にはあったが、確かに、両者は共通するところが多い。それはなぜかといえば、現代の人間観、社会観の「主流」が、非・高齢者である成人男性にあるからだろう(そういえば、「子ども」が抱える問題も、女性や高齢者とよく似ている)。

弱さを引き受け、その上で自立した生活を目指す。その先駆者だったのが、障害者運動だったというのが興味深い。誰にも頼らない「自立」ではなく、堂々と他者に頼りつつ、自分のやりたいことをやる。障害者の自立生活運動から、著者はそのことを学んだという。

一方、著者の視点は介護を供給する側にも向けられる。「公」でも「民」でもない「協」の団体として著者がワーカーズ・コープを挙げるのは『ケアの社会学』でも見られたことであるが、NPOも含めたこの中間領域をどのように育てていくのかという課題は、今も解決されていないままである。一方、「公」を担う社会福祉協議会、さらには行政職員に対しては、非常に厳しい言葉が並ぶ。著者は、これからの行政職員は定型的なサービスはアウトソーシングし、地域の市民活動や市民事業をつなぐネットワーカーに特化すべきであるという。少し長いが、最後に引用しておく。自治体職員各位におかれては、叱られているつもりで読みましょう。

「これからの行政の職員に求められる資質は、市民のニーズがどこにあって、何と何をどう組み合わせればどのような資源、つまりヒトと活動と情報がどこにあって、何と何をどう組み合わせればどのように新しい事業展開が可能か、ということを見抜く見識であり、それらを結びつける能力であろう。そのためには、行政職員が市民とのネットワークをもっていなければならない。一日中、九時から五時まで机に座ったままの行政の職員なんてもういらない。デスクワークや定型的業務もアウトソーシングすればよい。勤務時間の半分は外に出ていてほしいし、いつでも外に出られるように、行政の、とくに女子職員の、あの制服なんてものは、ただちにやめてほしい。役所に来るとサンダルに履き替えるのもやめてほしい。制服とサンダルを見ると、すぐに外に出るという姿勢がまずないことが、ただちにわかってしまう。もうデスクワークだけで行政ができる時代じゃない。市民との連携のなかでキーパーソンの役割を果たさないと、職員の存在意義はないだろう」(p.212-213)

 
書籍のタイトルからは想像もつかない広がりと深さの、上野千鶴子式・ケア論の入門書。ただし、激辛。