【2155冊目】ヤマザキマリ『男性論』
ハドリアヌス。プリニウス。フェデリーコ2世。ラファエロ。スティーヴ・ジョブス。安部公房。水木しげる。
一見とりとめのないラインナップだが、これが著者にとっての「お気に入りの男性リスト」。共通点は、人文系と理数系、リアリストと空想家の2つの貌を併せ持ち、時代に流されず、むしろ時代を創るような人物だ、という。
昔の偉人ばっかりじゃないか、と思われるかもしれないが、著者は単なる崇拝の対象として、これらの人物を選んだのではない。ラファエロなどに対しては、むしろ本気で「同時代に絵を描きたかった」「ラファエロのチームに参加したかった」と思うというのである。だから著者は言う。「同時代の同空間に生きている人たちとの狭い横の連帯なんか気にしない。横軸を広げるだけでも十分世界は拡がります。でも、ぐっと時間軸を縦に掘り下げ、属性として自分と同じタイプの人間がいないか探していくと、ひとはいまよりも自由になれることがあります」
相手は男性とは限らない。女性であっても、やはりスゴイ人には憧れるし、刺激を受ける。須賀敦子や兼高かおる、ソフィア・ローレンやモニカ・ベルッチがそういう相手だとか。でも、本当の恋情とはそういうものなのだろう。身近に魅力的な人がいることももちろんあるが、それだけに限定してはもったいない。
自分だったら、歴史上のどんな人物に「惚れる」だろうか。そこにはどんな共通点があるだろうか。そういう人物が見つかれば、それこそが私自身のロールモデルになるのだろうが・・・・・・。
みなさんが「恋する」人物は、誰ですか?
【2154冊目】後藤絵里『産まなくても、育てられます』
産まなくても、育てられます 不妊治療を超えて、特別養子縁組へ (健康ライブラリー)
- 作者: 後藤絵里
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/11/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る
「特別養子縁組」について、具体的なケースを紹介しつつ、その全容をわかりやすくまとめた一冊。
バラ色の世界ばかりが描かれているわけではない。暴れたり甘えたりの「試し行動」や、いつ真実を伝えるかという「真実告知」の難しさもしっかり取り上げつつ、「産めなくても育てたい」人々にエールを送っている。
もともとは「子の福祉」のための制度だが、一方では現実に「産めない」夫婦のための制度にもなっているのが、この特別養子縁組の面白いところである。少子化が叫ばれる中、子を持ちたいのに産めない夫婦も多い中、この制度があれば「産めなくても育てられる」人、「産んだけど育てられない」生みの親、そして「産んでもらったけど育ててもらえない」子ども、それぞれがWIN-WINとなる……はずだ。
だがそのためにはたくさんのハードルがあるのは、本書を読めばよくわかる。制度上のハードルに加え、子との関係、実親との関係など、養親となるのは決して楽ではないのである。だが、それを乗り越えることで手に入れることができるものも、またたくさんあるはずだ。養親になりたい人、子どもの福祉に関わる人、少子化問題に関心がある人、必読の一冊である。
【2153冊目】井上ひさし『表裏源内蛙合戦』
表題作と「日本人のへそ」の2篇が入った一冊。初期の戯曲ということになるが、最初からこんな作品を書いていたとはびっくりだ。
「表裏源内蛙合戦」は、平賀源内というきわめて取り上げ方の難しい人物を主人公に据えた果敢さに加えて、源内を「表」と「裏」の2人役にしたというのが面白い。源内をめぐる江戸文化ネットワークは、後の「手鎖心中」を思わせる。そして、下ネタもダジャレも言葉遊びも存分に盛り込んだ笑いに次ぐ笑いの果てに登場するラスト・コーラス「美しい明日を」の素晴らしさ!
美しい明日を
お前は持っているか
美しい明日を
心のどこかに
尻尾を振りなさい
出世が望みなら
高みの見物もいい
野次馬は傷つかない……
「日本人のへそ」は井上ひさしの出発点に当たる作品だが、こちらはなんと「吃音矯正教室」が舞台である。吃音治療劇という形で劇中劇が演じられ、そこで出てくるのが東北出身のストリッパーという、井上ひさしの出自を濃縮したような人物なのだ。徹底した言葉遊びで煙に巻かれているうちに、劇の外側と内側が混ざり合い、とんでもないカオスな状況が出来上がる。
そしてこのとんでもない2篇の戯曲、書かれているのはどちらも「日本」なのである。それも、平賀源内やストリッパー、吃音症患者というアウトサイダーから見たものだ。だが思うに、そうした視点からしか浮かび上がってこない「国のすがた」というものも存在するのだろう。それこそが、政治や経済の文脈からは見えてこない、日本の本来というものなのではなかろうか。
【2152冊目】リチャード・スティーヴンズ『悪癖の科学』
「悪癖」と呼ばれるものにも、良い面はあるはずだ。そうした「確信」に基づいて行われてきた数々のトンデモ実験が、本書ではずらりと並んでいる。
セックス中の男女の脳波をリアルタイムで測定する。悪態をわざとつかせて、痛みに耐えられる時間が長くなるかを調べる。スカイダイビング中の人に記憶力テストをやらせて、普段よりどれくらい「アホ」になるかを調べる……。一番笑ったのは、幽体離脱が本当に起こるかを確認するため、天井を二層にしてわざわざ裏側に模様を描き、死にかかった人に「どんな模様が見えたか」を聞くというものだ(幽体離脱すると天井に浮かんで下を見ていることが多い、という報告から考え付いたらしい)。ちなみに「悪態による苦痛緩和」は著者自身が行ったもので、これによって2010年のイグ・ノーベル賞をもらっているらしい。
で、まあ、結論としては、セックスであれ酒であれ猛スピードでの運転であれ(さらには「ストレス」「サボり」「臨死」まで)、それなりに良いこともある、ということになるのだが、そもそものところ、悪癖というのはメリットをわざわざ提示されなくても誰もがやりたがるものなのだから、あえて言う必要があるのかどうか。それならむしろ、本書の冒頭に掲げられているアメリカのコメディアン、ジョニー・カーソンのこのセリフを味わったほうがよいだろう。
「健康のために、酒もタバコもセックスもグルメもやめた男がいる。
どうなったかって? あっというまに自殺したよ」
人生の楽しみは悪癖にあり。良いことなんてひとつもなくたって、わたしたちは酒を飲み、うまいものを食べ、セックスに耽りたいのである。そのメリットを提示するなんて無粋でしかないのだが、そのためにここまで奇妙な実験を繰り返す科学者たちを見ていると、なんだかかえっていとおしくなってくる。
【2151冊目】宇野重規『保守主義とは何か』
保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)
- 作者: 宇野重規
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2016/06/21
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (9件) を見る
「保守」があって「革新」がある、のではない。順序からいえば「革新」があって「保守」が生まれたのだ。
保守思想の提唱者エドマンド・バークは、フランス革命を見て保守思想を唱えた。理性に基づく進歩主義の危うさに気づき、社会の変革というものは、過去からの実践の積み重ねによって少しずつ行われるべきものだ、と訴えたのだ。
それはある意味、理性の否定であった。そして、実際にフランス革命は恐怖政治と独裁を生んだ。「理性」に基づく社会変革は、とんでもない結果に終わったのである。ただし、バークが革命の危険性を訴えたのは、それよりずっと前、革命が始まってまだ間もない頃だった。
だが、ここで一つの問題が生じる。保守主義とは「何を保守するのか」という問題である。バークにとっては、それは英国が長年にわたり勝ち取ってきた「自由」であった。だが、その自由を獲得した過程もまた、変革と革命の連続ではなかったか。つまり「保守」の対象は、かつては「革新」だったはずなのだ。
ここでバークが持ち出すのが「時効」という考え方だ。最初は征服によって生じた(つまり、前の国家から暴力的に奪った)統治権であっても、長い年月を経て人々に受け入れられれば、そのことによって正統性を得る。現在とはこうした「時効」(法律的に言えば「取得時効」か)の積み重ねの上に成り立っているのであって、それを一挙に更地にしてしまうような試み(その代表例がフランス革命)は認められない、というのがバークの考え方なのである。
このことは、日本に置き換えて考えてみると興味深い。日本の「保守」が想定しているのは、おそらく明治以降、終戦以前の、ごく短い期間の価値観であると思われる(もっとも、部分的には戦後の高度成長期に生まれた家族モデルが取り込まれている)。一方で、戦後70年が経ち、とっくに「時効」が認められてもおかしくない日本国憲法に基づく価値観は「リベラル」であるとして切り捨てられている。いったい日本の「保守派」の拠って立つ価値とはどこにあるのか。それはバークのような「過去を見直しつつ、少しずつ前に進む」思想なのか、それとも単なる懐古趣味なのか。
革新勢力が弱体化し、保守一強となった現代こそ、「保守主義」の思想の淵源を知る必要がある。本書はバークにはじまり、エリオットやハイエクやオークショット、あるいは丸山眞男や福田恆存をめぐりつつ、その本質と展開を総ざらいする一冊だ。丸山眞男?と思われた方もおられるかもしれないが、そうなのだ。丸山眞男こそ、戦後日本の隠れた「保守思想家」のひとりなのである。