自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2120冊目】黒川祥子『誕生日を知らない女の子』

 

 



児童虐待を扱った本は多いが、「その後」を書いたものは少ない。だが、虐待が「保護すれば終わり」「分離すれば解決」といったなまやさしいものではないことは、本書を読めばよくわかる。

突然「フリーズ」してしまう子。カーテンにくるまって出てこない子。すさまじい暴れ方をする子。虐待者である実母のもとに戻りたがる子。産まれてきた自分の子を、自分がされてきたように虐待してしまう親……。虐待という経験が、いかに子供の心を追い込み、破壊寸前にまで至らしめるか。ある虐待サバイバーは「あの時殺されていたほうが良かった」と言ったという。

思えば今までの児童虐待に関する本のほとんどは、どちらかというと「虐待する親」の視点に立って「なぜ虐待してしまうのか」といった切り口から書かれていたものが多かったのではないか。だが、本書ではその視点は基本的に排除されている。本書の冒頭で「なぜ、母親が自分の子どもにこのようなことができるのですか?」と問うた著者に、児童精神科医杉山登志郎はこう答える。

「マスコミは、すぐに因果律で考えるからなー」

 



「こういう親が、現にいるわけです。説明できないマイナスの部分にわれわれは直面していくしかない。言葉で説明できないけれども、こういう親がいる。そこからスタートしないと。虐待は何よりも、子どもの側から見るべきものです。子どもを含めた虐待全体の中で考えていかないといけない」

 



この言葉に、本書の立ち位置はすべて示されている。「なぜ」を問うのは、評論家の視点、第三者の視点である。だが著者は、徹底して子どもの側に立って「虐待」を見つめている。そのことが、この本をこれまでの児童虐待関連書籍とまったく違うものにしている。

読むに堪えない悲惨な話もたくさん出てくる。だが、こうした経験をし、こうした思いをした子どもたちが大人になって、生活しているのが今の社会の現実なのだ。そして、その子どもたちを懸命になって支えているのが、本書の「もうひとりの主役」というべき里親たちである。その献身ぶりと熱意には、本当に頭が下がる。日本の児童福祉は、こうした人たちの献身によって支えられているのである。

【2119冊目】津島佑子『狩りの時代』

 

狩りの時代

狩りの時代

 

 



今年2月に亡くなった著者の、遺作。ダウン症だった著者の兄の存在が取り込まれているが、他にも、著者自身の記憶が網の目のように織り込まれているようである。

「差別の話になったわ」と娘さんに語ったのが、亡くなる前の年の暮れ。だが、差別の対象となっている主人公・絵美子の3歳上の兄、耕一郎はずっと前、15歳の時に肺炎で亡くなっている。具体的な差別発言も、絵美子が10歳の時に投げかけられた「フテキカクシャ」という一言だけ。だがこの一言が、鉛のように絵美子の心の底に沈んでいく。

言葉を投げかけたのは、同年代のいとこである晃か秋雄のどちらかだ。大人に聞いた言葉を、どうやら腹いせまぎれに投げつけたらしい。それにしても10歳かそこらの子供の発言だ。だが、絵美子はその言葉を忘れられず、許せない。それが「不適格者」であって、ナチス・ドイツの優生思想に基づくものだと知ったからだ。それは兄の耕一郎の存在そのものを抹殺する言葉であった。

そこに、もうひとつの「記憶」が重なる。絵美子の伯父・叔母らの子供時代であった戦中期、来日したヒトラー・ユーゲントを見に行った時に起きた「事件」だ。その内容は本書の終わりの方ではじめて明かされるのだが、これが「差別」をめぐるもうひとつのトラウマになっていく。

いずれも、事件としてはそれほど大きなものではないかもしれない。だが、それだけにずしりと重く、心にのしかかるようなものなのだ。こういう本を読むと、「差別はやめましょう」のようなスローガンがいかに空疎なものかがよくわかる。10歳の頃に投げかけられた言葉が、生涯にわたって心に残る。差別とはそういうものなのだ。



【2118冊目】ヘンリー・D・ソロー『森の生活』

 

森の生活 (講談社学術文庫)

森の生活 (講談社学術文庫)

 

 



ソローがウォールデン池のほとりに小屋を建てたのは、28歳の時だったという。この年で自然の中で生きることを選ぶのは、早いのか、どうなのか。

いわゆる「隠棲」のようなものではなかった。東洋でいう隠者のようなイメージでとらえてしまっては、ソローの思想の本質を見誤る。ソローはむしろ、生きるということの本来の姿を模索するという前向きな考えから、あえて森での生活を選んだのだ。文明から離れた場所に身を置いたこと自体が、ソローにとってはきわめて本質的な行為だった。本書では孔子の言葉がたくさん引用されているが、ソローはやはり「老荘」ではなく「孔子」のほうなのだ。

とはいえ、本書はたいへん美しい本である。絶妙な自然の描写と、ソロー自身の思索のことばが融合して、ひとつの世界をかたちづくっている。例えば次のくだりなど、こんなふうに一日を送ってみたいと思わせる。

「ある夏の朝のこと、いつもの水浴をすませた後、時々、私は日の出から正午まで陽当りのよい戸口のところに坐り、物思いに耽っていた。周囲は鬱蒼と茂る松林、胡桃、アメリカ漆の樹木が静寂そのものの佇まいの中に群生し、小鳥たちがあたりで囀りながら、音もなく、小屋の中をすいすいと飛び抜けてゆくのだった。やがて夕日が西の窓に落ちて、遥かなる街道を往還する旅人の馬車の音で、ふと私は一日が暮れてゆくことに気づくのであった」

 



時間を無駄にしている、と思うだろうか? だが、だったら何に時間を費やせば良いのだろうか。ソローはこうも書いている。

「なぜ、そんなに死にもの狂いになって成功を急ぎ、死にもの狂いになって事業に成功したいのか? 人が自分の同僚と一緒に歩調を合せようとしないとすれば、それは、多分、違ったドラムの音を聴いているからであろう。そのドラムがどんな拍子だろうと、また、どんなに遠くから聞こえてこようと、聴こえてくる調べに調子を合せて、歩こうではないか。林檎や樫の木のように、早く成長することが重要なのではない。人は自分の春を夏に変えてしまおうとするのだろうか?」

 

それにしても、あの物質文明と消費社会の権化のようなアメリカという国に、このような思想家が生まれてくるというのが面白い。だがこれもまた、アメリカなのである。ナチュラリストだけの本にしておくのは、もったいない。

 

 

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

 

 

【2117冊目】荒俣宏『0点主義 新しい知的生産の技術57』

 

0点主義 新しい知的生産の技術57

0点主義 新しい知的生産の技術57

 

 



やりたいことを仕事にするか、仕事だからやりたくないことも我慢してやるか。

ある意味「社会人究極の選択」であるが、著者はこのどちらでもない道を歩んできた。荒俣宏の方法とは「仕事を「やりたいこと」に変えてしまう」ことだった。

魚類が好きだったことから入社した水産会社。最初は、船に荷物を積み込む作業をさせられたが、船乗りの専門用語が多すぎてわけがわからない。だが青年アラマタはふと「これって「暗号」みたいなもんじゃないか?」と気づく。探偵小説や推理小説好きだったので、たちまち「船乗りの暗号」を覚えるのが楽しくなった。

次に配属されたのが、コンピュータ室。一番行きたくない部署だった。今のコンピュータとは違って、機械語を覚えてプログラムを書かないと動かない。だがやはり、アラマタは考えたのだ。「コンピュータを操作しプログラムを書くことは、言語哲学の実践だ、すなわち文学なのだ」「言葉が通じないとプログラムは動かない。これは呪文と同じではないか」俄然、コンピュータが知の探究の対象となり、9年間をそこで送ることができた。

このエピソードに、本書で述べられているアラマタ流「知的生産の技術」が凝縮されている。やりたいことを探すのではなく、やっていることを「やりたいこと」にしてしまう。それには「みんながやっているからやる」という考えに背を向けて、誰も興味を向けないような「ニッチ」に注目したほうが面白い。そうやって積み重ねてきたニッチな知識が、ある日突然評価され、脚光を浴びることになる。著者の場合、それが「風水」とか「お化け」の世界だった。

だから好きな事、興味があることに突き進むことが大事なのだが、それが「オタク」になってはいけない、とも著者は言う。オタクの世界は閉じている。そこに窓を開け、外界とつながることで、積み上げた知識や情報がどんどん展開し、さまざまに結びついていくのだ。だからこそアラマタは「悪食であれ」と言い「来たバスには飛び乗れ」と言う。

だがそのためには、いろいろなものを捨てることも必要だ。特に、自分が大事だと思っているものは、世間的な成功や達成と結びついていて、それが人生の重石になっていることが多い。だから著者は「もっとも叶えたいベスト3を人生から外してみよう」と言うのである。そのほうが「生きることが楽で自由になって、さまざまなことができるようになる」と。

だがこれこそ、言うは易し、行うは難し、である。それを実感するには、著者自身が「捨てた」3つを見てみるとよい。それは「成功したい」「お金持ちになりたい」「異性にモテたい」なのだ。この3つを振り切れる人が、果たしてどれほどいるだろうか。私はちょっと自信がない(あわよくば……とどこかで思っている自分がいる)。それが自分にとってのブレーキになっているのだろう。

そういう意味では、本書は「ちょっと変わり者」と言われている中学生とか高校生が読むと、けっこう身に沁みるものがあるかもしれない。著者も中学生の頃、「いい本を読め」と言われてゴミムシの図鑑を見ていたら「そんなのじゃなく、野口英世の伝記にしなさい」と言われたそうである。まあ、学校なんていつだってそんなもんなのだ。問題は学校じゃなくて、その中で自分自身がどれほど「バカ」を貫けるかどうかなのである。

【2116冊目】萩耿介『イモータル』

 

イモータル (中公文庫)

イモータル (中公文庫)

 

 
現代の日本を離れてインドで消息を絶った兄と、不動産営業マンとして日々を送る弟。吹き荒れる革命をよそに王立図書館で言葉に埋もれるデュペロンと、商人の弟。ムガル帝国皇位継承者でありながら、古代インドの知恵と真理に惹かれるシコーと、兵を挙げて皇位を簒奪する弟。

はるかに時空を隔てた「3組の兄弟」。世俗にまみれて生きる弟と、世俗を超えた知の世界、言葉の世界に身を投じる兄という組み合わせが重なり合っている。そして、この3組をつなぎあわせるのが「智慧の書」という不思議な本だ。古代インドの智慧が満ちたウパニシャッドを、ペルシャ語に訳したのがシコーなら、ヨーロッパに伝わったそれをラテン語に訳したのがデュペロン。そして、この本が日本に流れ、日本語に翻訳されたものを手に取ったのが、インドで消息を絶った兄であり、その弟なのだ。

世俗の生は一代限り。だが、智慧と真理の道は永遠であり、不死(イモータル)なのだ。そして、智慧と真理は文字によって刻み付けられ、正者の時間を超えていく。

デュペロンもシコーも、周囲からはさんざんに呆れられ、忠告される。そんなことにかまけていないで、もっと「世俗の生」を生きろ、と。だが、時代を超えたのはデュペロンやシコーによって訳されることで、国境を超えて広まった本の方なのだ。そしてそれが、兄の消息を追う男の手元にたどり着く。それまでの弟たちと違うのは、彼がインドに赴き、兄のたどった道を辿ろうとすること。ここに至って、兄と弟たちのループが途切れ、新たな世界が目の前に広がっていく。

奇妙な小説だが、やたらに印象に残るのはどういうわけか。別段難解ではなく、語り口はむしろスリリングで面白い。だが、その奥行きはなかなかに深く、人の生き方ということを真正面から考えさせるものがある。出世や金儲けが人生の目的か。それとも、それはかりそめの幻影にすぎないのか……。