自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2115冊目】カール・ジンマー『ウイルス・プラネット』

 

ウイルス・プラネット (飛鳥新社ポピュラーサイエンス)

ウイルス・プラネット (飛鳥新社ポピュラーサイエンス)

 

 
ウイルスはどこにでもいる。砂漠にも海中にも、南極の氷の底にもいれば、人の身体の中にも。健康な人の肺の中には、平均174種のウイルスがいるという。しかもその9割は、未知のタイプなのだ。

ウイルス(VIRUS)という言葉は、ラテン語に由来する。ラテン語の「ウイルス」には「蛇の毒液」と「人間の精液」という2つの意味があった。著者はこれを「1つの言葉の中に、創造と破壊とが同居していた」と表現する。

この語源が、ウイルスの何たるかを、実に正確に言い当てている。言うまでもなく、ウイルスは人類にとっての災厄をもたらしてきた。天然痘、インフルエンザ、子宮頸がん、エイズエボラ出血熱……。人類を滅ぼすとしたら、それはウイルスだろうと言う学者もいるくらいである。

だが、ウイルスは「創造」をもたらしてもきた。例えば、細菌を攻撃するバクテリオファージは、細菌性の感染症治療に役立っている。だがなんといっても重要なのは、人間を含む生物のDNAには、ウイルスの遺伝配列がかなり組み込まれているということだ。

例えば海洋中に存在する海洋ウイルスには、宿主のDNAに「割り込み」、その一部として納まってしまうタイプのものが存在する。すると、宿主のDNAが分裂するとき、組み込まれたウイルスのDNAも複製され、増殖するのである。驚いたのは、光合成がウイルス由来の遺伝子によって行われているという指摘だ。例えば海洋微生物のシネココッカスのDNAを調べてみると、光捕集を行うウイルスの遺伝子が見つかるという。著者は「地球上における光合成の約1割は、ウイルス遺伝子によってなされている」と書いている。

こうした「遺伝子の組み込み」は人間にもみられる。なんと「内在性レトロウイルス」というタイプのウイルスは、時として何百万年もの間、宿主内にとどまることができるという。ヒトのゲノムの中に見つかったレトロウイルス様断片の中には、類縁の生物種には全く見つからないものもあるらしい。100万年前に人類の祖先に感染したレトロウイルスが、遺伝子の中でいまだに眠っているのだ。その割合はなんと、ヒトゲノムの8パーセント。驚くべき多さではないだろうか。

もっとも、こうしたレトロウイルスは完全にDNAに同化しているわけではなく、突然変異によってウイルスとしての能力が復活する可能性があるという。一方で、人間にとってのメリットも指摘されている。例えば、妊娠によって胎盤が形成される際、外層の細胞が融合するのだが、この融合にレトロウイルスの遺伝子が重要な役割を果たしている。こうなってくると、ヒトの「種の存続」そのものが、ある意味ではウイルスに支えられているということになる。

本書はそんなウイルスの「功罪」に触れながら、タバコモザイクウイルス、ライノウイルス、インフルエンザウイルス、ヒトパピローマウイルス、バクテリオファージ、海洋ウイルス、レトロウイルス、ヒト免疫不全ウイルス、ウエストナイルウイルスエボラウイルス天然痘ウイルス、ミミウイルス(このウイルスがまた面白いのだが、説明はやめておく)をそれぞれ取り上げて語った一冊。名うてのサイエンスライターだけあって、説明はめっぽうわかりやすく、話のハコビもうまいので、ウイルス学というなじみのない分野にも関わらずどんどん読まされてしまう。ウイルス入門にはうってつけの一冊として、おススメしたい。

【2114冊目】ラース・スヴェンセン『働くことの哲学』

 

働くことの哲学

働くことの哲学

 

 

仕事とは、いったい何だろうか……いや、違うな。この本を読みながら考えていたのは、「私にとって」仕事とは何なのだろうか、ということだった。

例えば、同じことをお金をもらわずにやっていたら、それは仕事だろうか。違う? なら、仕事とお金(給料、報酬、その他なんでも)は一体のものなのか。では「奴隷労働」は仕事か? それが極端すぎるというなら、たとえば「家事労働」は仕事? あるいは、趣味と仕事はどう違うのだろう。この読書ノートは「趣味」のつもりだが、じゃあこれを書いたらお金がもらえるとしたら、これは「仕事」になるのだろうか。

仕事と給料に関しては、本書におもしろい問いかけがある。他の条件(例えば物価とか、仕事の中身とか)が一緒だとして、あなたは次のどちらを選ぶだろうか、というものだ。

(1)あなたは年間35,000ポンド稼ぐが、ほかのひとは45,000ポンド稼ぐ
(2)あなたは年間25,000ポンド稼ぐが、ほかのひとは20,000ポンド稼ぐ

 


ちょっと考えてみてください。合理的なのは(1)だが、著者は、相当数の人が(2)を選ぶのではないかと考えている。なぜか。仕事と給料の関係とは、単なる「生活の糧」というだけではなく、そこに「みずからの価値」が示されているからだ。そこには「収入の高さ」と「人間としての価値」が、暗黙の裡に重ね合わされている。

あるいは、こんな統計はどうか。西洋諸国では、自分の仕事に「満足している」と答える人はおおむね80~90パーセント(けっこう高いのに驚く。日本ではどうなんだろうか?)。だが、それならみんな生涯同じ仕事を続けるかというと、それがそうでもないのだという。実際、離職率は年々増加し、生涯を一つの仕事だけで終える人はかなり少ない(書いていて思ったのだが、これって日本と真逆なのでは? 日本の雇用は「満足度が低いけど、転職率も低い」のではないか)。なぜこういうことが起きるのだろう。

なんだかんだいっても、仕事が人生に与える影響は大きい。仕事イコール人生、になってしまうのは危険だが、かなりのウェイトを占めているのは事実である。さらに問題をやっかいにしているのが「自己実現」と仕事の関係だ。興味深いのは、こうした「自分らしい自分」などという考え方が出てきたのは、近代ロマン主義の影響であるということだ。そこでいう「自己」とは、ふしぎなことに、今ある「自己」ではなくて、今後創出される自己のことをいう。ここでは仕事は、こうした「自前の自己」を創出するためのツールになる、と著者はいう。

問題は、こうした理想の自己が永遠に「自分の未来にある」ということだ。「自分の目標とする究極的にして個人的な意味が完全に実現されることがけっしてない以上、本当に自分が満足を得ることはない」そして、この「自己」の形成に仕事が大きな影響を与えている以上、理想の仕事にもまた、人はなかなか巡り合えない、ということになる。

本書で示されている「仕事と人生の関係」は、もう少しバランスのとれたニュートラルなものだ。それは生計の手段であり、苦役であり、生きがいであり、その他さまざまなものが組み合わさったものである。本書はさまざまな角度から、そうした仕事の「得体の知れなさ」を照らし出した一冊であるといえるだろう。

本書の序文によると、著者の父は14歳から定年までを、配管工として同じ造船所で勤め上げたという。著者によれば、父は造船所で働くことを楽しんでいたが、それが有意義なのかとか、自分のキャリアアップをどうするかとか、仕事とアイデンティティの関係について悩んだことはなさそうに思えた。だがそれでも「あきらかに造船所での仕事は、父が自分をどんな存在と理解し、また他人からどうみなされていたかを決めるうえで重要な部分を占めていた」と著者は言う。著者の仕事観の原型には、おそらくこうした父の姿があるに違いない。

本書は仕事について考える本であると同時に、人生について、生きがいについて、「私たちはなぜ生きているのか」という根源的な問題について考える本でもある。おそらく、両者が重なり合うという事実そのものに、仕事とは何なのか、という問いに対する著者の答えがあるのではないだろうか。

【2113冊目】織田作之助『夫婦善哉』

 

夫婦善哉 決定版 (新潮文庫)

夫婦善哉 決定版 (新潮文庫)

 

 
夫婦善哉」「続夫婦善哉」「木の都」「六白金星」「アド・バルーン」「世相」「競馬」の7編を収めた一冊。

何といっても有名なのは表題作の「夫婦善哉」。いろんな商売を始めるがなかなかものにならず、店のわずかな儲けを持ち出して遊郭で使ってしまうという、見事なまでの甲斐性無しの柳吉と(ミスター甲斐性無しの称号を進呈したい)、しっかり者の妻、蝶子の取り合わせは、典型的といえば悲しくなるほど典型的。

商売柄、こういう小説はどうしても福祉的な観点で見てしまうのだが、柳吉を厳しく折檻しつつも、結局はなんだかんだ言いながら受け入れてしまう蝶子自身が、かえって柳吉の自覚を妨げているように思えてならない。。心を鬼にして一度徹底的に突き放さないと、こういう男はダメなのだ。だがそこで鬼になりきれないのが、人としてのせつなさ、なのである。ああ、せつない。

この作品に限らず、本書全体を通して感じたのが、この「せつなさ」であった。それは不器用で懸命に生きているがゆえのものであり、人の本来的な弱さからくるものなのだと思う。そして、そういう弱い人たちを包むのに、この大阪という町はぴったりだと感じる。

大阪と言っても、吉本興業ばりの「作られた大阪」「演じられた大阪」ではない。むしろじんわりと温かく、庶民的で、誰でも懐広く受け入れてくれる大阪だ。だからこの人の小説は、読んでいるうちはいろいろ修羅場もあるのだが、それでもどこか安心できるものをもっているのである。

【2112冊目】池澤夏樹個人編集『日本文学全集30 日本語のために』

 

 
破格のアンソロジー。古代の祝詞から漢詩、仏典、聖書、琉歌、アイヌ歌謡と、のっけから異色のラインナップが続く。これまでの日本文学全集が日本語の「内側」にとどまっていたとすれば、本書は日本語の境界ギリギリを走破し、さらにはその外側から切り込んでくる一冊だ。

その勢いは後半になってもとまらない。「愛」「自由」などの項目ごとに「大言海」「広辞苑」「新明解国語辞典」などの主要辞書の説明が並び、『ハムレット』の翻訳がなんと6パターンにわたって展開され、大日本帝国憲法、終戦の詔書日本国憲法前文が並ぶ。終戦の詔書日本国憲法はそれぞれ「現代語訳」付き。なかでも終戦の詔書高橋源一郎訳は感動モノのすばらしさだ。

日本語は日本の中だけでできたものではない。本書が最初に突きつけてくるのはそのことだ。中国の漢字文化がその源流となり、仏典の言葉が新たな世界をひらき、その「翻訳言語」ぶりが、キリスト教や西洋思想を受け入れるにあたって大きな助けになった。

だがそこには、日本語の「外」と「内」にまたがり、バランスを取ろうとした先人たちの奮闘があったのだ。「五十音図」をめぐる松岡正剛の文章、旧仮名遣いをめぐる福田恒存の主張、現代の日本語をめぐる永川玲二や中井久夫の論考は、その戦いが今も続いていることを感じさせてくれる。既読ではあったが、大野晋の卓抜な「は」「が」論が収められているのも嬉しい。

できればここに井上ひさしの日本語論、桑田佳祐椎名林檎の歌詞あたりがあると個人的にはパーフェクトだったのだが、まあそれは好みの問題。日本語とは何なのか。日本文学とは何なのか。本書はそのことを、時間と空間それぞれにおけるもっとも外側から照らし出した異色の一冊だ。

【2111冊目】川村隆彦『ソーシャルワーカーの力量を高める理論・アプローチ』

 

ソーシャルワーカーの力量を高める理論・アプローチ

ソーシャルワーカーの力量を高める理論・アプローチ

 


タイトルからお分かりの通り、完全に「業務用」の一冊。この手の本は読んでもあまりここには取り上げないのだが、本書はとても充実していたので、我慢できず書くことにした。相談業務に携わる人、ケースワーカーは一読して損はない。そういうお仕事とは無関係な方は……また次回の更新のときに、どうぞ。

さて、現場の仕事でもっとも悩ましいことの一つが「理論」と「実践」をどうつなげていくか、ということだ。理論ばかりで頭でっかちになっていても、それが具体的な支援に活かされていなければ意味がない。だが、理論を全然知らないで、自分の経験則や感覚だけで仕事をされたのでは、クライエントはたまったもんじゃない。本書は、理論の説明と具体的なケースへの適用場面を続けて読むことで、両者に橋を架けてくれる一冊なのだ。

本書に出てくるワーカーのやり取りは、それだけさらっと読めば、何ということもない会話にしか見えない。だが、その裏側にはどんな意図があり、思惑があるのかが、その前に「理論」が提示されることによって見えてくる。

例えば、ある問題をどこまで掘り下げるか。原因までさかのぼっていくか、あえて途中で切り上げるか。どこまで耳を傾け、どこからワーカーの意見を伝えるか。さりげない会話が、実はそういった一連の専門性を裏にはらみ、しかもそれを感じさせない。福祉のプロの「会話」とはこういうものか、と思わせられる。

相談業務は、どことなく将棋に似ていると最近思う。複雑に何手も先を読みながら、しかし意識は相手の次の一手に置かれている。同じように、相手の会話にあくまでフォーカスしながら、私たちはその言葉に応じた「返し」を何通りもイメージし、それぞれの先を読んだ上で、その場にもっともふさわしい応答を行う。違うのは、将棋には持ち時間があるが、ワーカーは常に「一分将棋」であるということ。そして、将棋はあくまで自分が勝つことが目的だが、相談業務は、いわば相手に「勝たせる」ことが目標なのだ。

私自身はどうしても「原因」にさかのぼりたくなる思考の癖があるようで、本書のアプローチのいくつかは、そこを早々に切り上げている点が物足りなく思えてしまった。だが、それは私自身の悪癖なのであって、場合によっては原因ではなく、将来の行動に着目するほうが良いこともあるのだ。そして、いずれにせよ最低限の「基礎」となるのは、本書の冒頭に挙げられているクライエント中心型のアプローチ。共感と受容は、やはり相談業務のアルファであってオメガなのだろう。