自治体職員の読書ノート

読むために書くのか、書くために読むのか。

【2262冊目】細見和之『フランクフルト学派』

 

 

最近ワケあって現代哲学の流れを調べているが、そこで頻繁に出てくるのが「フランクフルト学派」という言葉。だが、どうもその位置づけが掴みづらい。そこで読んでみたのがこの本。フランクフルト学派の創成期から現代に至るまでの流れを、シンプルかつ明快にまとめている。

フロム、ベンヤミンアドルノ、ホルクハイマー、ハーバーマスと、取り上げられている思想家自体もなかなかにとっつきづらい連中ばかりだが、その経歴と思想の概要もまた、たいへんわかりやすく説明されている。ちなみにフロムやベンヤミンは一般的にはフランクフルト学派には含まれないことも多いと思うが、その後の思想の展開を理解するには、やはりこの2人の業績は欠かせないのではないか。

本書の白眉はやはりアドルノとホルクハイマーの主著『啓蒙の弁証法』をめぐる第4章と、それに続く第5章。そもそもフランクフルト学派は、第一次世界大戦を経て「理性的で文明的な個人」という人間観に疑いをもつところから始まったワケであるが(だからこそその草創期に、フロイトマルクスの思想が架橋されたのだが)、さらにそこに決定的なダメ押しをしたのが、ヒトラースターリンの登場であった。

アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」という有名な言葉を吐いたのはアドルノだが、『啓蒙の弁証法』の序文には「なぜ人類は真に人間的な状態に歩みゆく代わりに、一種の新しい野蛮状態に落ち込んでゆくのか」と書かれているという。この本自体はナチスホロコーストの詳細が判明する以前に書かれたものであるが、内容はまさにその後の展開を予言するものであった。ナチス絶滅収容所では、ユダヤ人の大量殺害という蛮行が、それを可能にする高度なテクノロジーとシステムに支えられていたのである。

さらに、そもそもなぜユダヤ人迫害が起こったかという点については、人は同一性を求め、そのために「非同一的な存在」を排除し、迫害するという指摘も忘れがたい。そもそもフランクフルト学派の主要メンバーはユダヤ人であり、ナチスの政権掌握後はアメリカに亡命して研究を続けた。彼らはヨーロッパのマジョリティから「非同一的」存在として扱われ続けたのである。

ここでアドルノらが重視しているのが「ミメーシス」(模倣)という方法だ。これは、先ほどの「自己を他者と同一化する」のとは全く逆の行為であり、「自己をむしろ他なるものへと異化する」ものだという。いわば自己の内側に「非自己」を取り込むのがミメーシスなのだ。著者のわかりやすい説明を引くと、ミメーシスとは「既知のものへと還元・同一化することなく、未知のものを未知のものとして経験し認識しうる能力」(p.160)なのである。同一化への圧力が強い日本の社会には、まさにこのミメーシスが必要であるように思われる。