自治体職員の読書ノート

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【1856冊目】幸田露伴『芭蕉入門』

 

芭蕉入門 (講談社文芸文庫)

芭蕉入門 (講談社文芸文庫)

 

 

以前、『露伴の俳話』という本を読んで、露伴の俳句眼(というのだろうか)に驚いたことがあったが、本書最大の見どころもまた、露伴による俳句評である。しかも、以前の相手はシロウトだったが、今度の相手は「俳聖」芭蕉。さて、どうなるか。

とはいえ、相手が芭蕉でも容赦ないのが露伴である。「悪句だ」「嫌いな句だ」「たいした句ではない」とズバズバ斬りまくる勢いに、読んでいるこちらのほうがビビってしまう。特に手厳しい評を向けられるのは、観念や理屈に落ちている句。「海ははれてひえ降の寺五月かな」に対する「下手な刺身のやうである」という評には笑ってしまった。

一方、褒めるときもその褒め方が一様ではない。特に、その句について述べつつも、俳句そのものの核心に迫るような言葉がさらりと述べられているのが、読んでいて油断ならない。

例えば「橘やいつの野中のほとゝぎす」という句に対しては「筋路は分明で無いがしかも情は感じられる。筋を分けて論理的に解釈する意味よりも直覚で感情が掴める。これが幽玄体である」とした上で「詩には幽玄と平明との行き方があるが、之れはその幽玄の句である」と書かれている。これは、深い。

「桐の木に鶉なくなる塀の内」については、句の主賓はウズラではなく桐である、と注意した上で「句の主賓を見分けないと句の味ひが異つて来ることがあります」と書いている。カメラで言えばフォーカスのようなものだろうか。こうした意識がなく、ピンボケの読み方をしていることがいかに多いか。

解説の小澤實氏も指摘しているが「ともかくもならでや雪の枯尾花」に対して「此句はわたくしの句であつたのを芭蕉がわたくしの心の中からいつの間にか偸み出して披露しておいたのだつたやうに思ひました」「よい詩人といふものはいつでも人の心中から人の感じを取出すもので、自分がわざと巧い詩をつくり出すものではありませんとおもひました」というくだりも凄い。これも詩作、句作の本質をえぐる一言であろう。

もっとも、解説ではこのくだりについて「神秘的な体験」「これほど芭蕉と一体感をもっていたひとが、近代に果たしていただろうか」「露伴は詩人との共感性をことにだいじにしている」と書いているが、う~ん、ここは「そういうこと」を書いているのではないんじゃなかろうか。むしろ「自分が感じたことを詠まれた、と思われるように詠む」ことにこそ詩作・句作のポイントがある、ということを、露伴は言っているのだと思うのだが。

なお露伴の評し方の中でちょっと面白いのが「俳諧である」という言い方だ。例えば「うぐひすの笠落したる椿かな」に対しては「梅の花と云はずに椿と云つたのが俳諧でおもしろい」と言ったり「初霜や菊冷初る腰の綿」について「腰といふところに俳諧あるなり」と言うような場合である。

では俳諧とは何か……ということを説明してしまっては俳諧ではないので、説明はしない。一言だけ言えば「俳諧である」というのと、「観念的である」「理屈である」というのは、ある意味正反対の評なのである。私も「観念的」「理屈的」ではなく「俳諧的」なる読書ノートを書いてみたいものだ。