自治体職員の読書ノート

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【1852冊目】井筒俊彦『イスラーム思想史』

 

イスラーム思想史 (中公文庫BIBLIO)

イスラーム思想史 (中公文庫BIBLIO)

 

 

先日の『イスラーム生誕』に続き読んだ一冊。まったく未知の領域だったが、それでもきちんと分かるように書かれているところが、さすがの井筒節である。

当然のことだが、イスラーム思想の根幹には「アッラー」と「コーラン」がある。ところが、厄介なことに、そのコーラン自体が一貫していない。だが、だからといってコーランを放棄するわけにはいかない。矛盾しているテキストに対して、その内容をいっさい否定することなく、どのように理解し、実践していくかという「超難題」から、イスラーム思想は始まった。

だから、イスラーム思想は、いってみれば七転八倒の歴史である(ちなみに同じことが、聖書と神をめぐるキリスト教社会でも起きている。こちらはイエス・キリストという「神だか人だかわからない存在」がいるので、もっとややこしいが)。しかもそこに、プラトンアリストテレスなどのギリシア思想が流れ込む。それは「真理」という概念を、いわば「神とコーラン」に対置する試みでもあった。この流れは初期イスラーム神学のムアタズィラに始まった。

「思想史の上でムアタズィラについて一番重要なのは、彼らがイスラームにおいて最初に「理性」を真理の標準として認め、かつその絶対的権威を確立したことである。従来は真理といえば神の啓示と予言者の言行に依る以外にこれに達する途はなかった。ところがムアタズィラによって始めて理性の自律が認められ、それによってイスラーム思想は哲学的思索の路に巨歩を踏み出すことになった」(p.56)

さて、ヨーロッパ思想の視点からみれば、ギリシア・ローマ哲学はいったんイスラーム世界に伝わり、それがルネッサンス期になってヨーロッパに回帰したという流れが語られることが多い。だが、イスラーム世界は単なる「思想の一時避難所」ではない。そこには独自の思想の格闘があった。

そもそも、多神教的かつきわめて思弁的なギリシア哲学と一神教イスラーム思想は、ほんらい水と油ほどに違うはずである。それを融合、変容させてきたイスラーム側の努力があったからこそ、一神教社会となった後のヨーロッパでも、これが継承されたのではないだろうか。ちなみに、本書ではアヴィセンナアヴェロエスらの「有名どころ」に加えて、ファーラービーやイブン・バーッジァ、イブン・トファイルらの思想も取り上げ、多面的にイスラーム思想の動向を記述している(もっとも、実はこれでも主な思想家に偏って書かれているらしく、本当はこんなもんじゃないらしい)。

さらに巻末には、イスラームへのインド思想の流入というテーマについて書かれた小論も収められている。融通無碍なインド思想と一神教イスラーム思想はまるっきり相容れないような気もするが、地理的には確かにインドとイスラームは隣接しているのだから、影響があったっておかしくない。ちなみに興味深いのは、インドのヴェーダンタ思想をイスラーム思想界に流入させたチャネルとなったのが、イスラーム神秘主義スーフィズムであるということだ。特にバスターミーというスーフィーの存在が面白い。気に入ったのは次のような小話だ。

「ある人が彼に呼びかけた。『バスターミー!』彼は言った。『バスターミーとは誰のことかね。一体、誰がバスターミーの知り合いなのだ。バスターミー自身が、こんなに探しても全然見つからないというのに』と」(p.464)

「ある人がバスターミーの家の扉をノックする。『誰にご用?』『バスターミーにお目にかかりたいのですが』。その人にバスターミーは言う。『お引きとり下さい。お気の毒だが、この家の中には神だけしかいない』(同頁)

自己探求から自己喪失、そして神との融合へ。これは言うまでもなく、インド思想の「ブラフマン(宇宙)とアートマン(個人)の結合」に通じる。神と人が結合するなんて、イスラームではとんでもない思想なのだが、スーフィズムでは「人」の側を消失させることで、こうした境地をつくりだしたのだ。