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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1809冊目】春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』

場所・都市・風景

映画本7冊目。kei-zuさん御推奨

実は、本書に取り上げられている東映の時代劇や任侠映画は、まったくと言っていいほど観ていない。にもかかわらず、この本はムチャクチャ面白かった。

これは、先日紹介した『銀幕おもいで話』の高岩淡が長年にわたって身を置いていた東映京都撮影所を、正面から取り上げた一冊だ。高岩氏の綴る東映京都の日々も波乱万丈だったが、あれはあくまで高岩淡という「内部の」人間によるものだった。一方、本書の著者は1977年生まれ。つまり、東映黄金時代をリアルタイムでは知らない世代によって書かれているのだが、それだけに、俯瞰した視点から東映京都の壮絶な日々が余すところなく描き出されている。

徹夜に次ぐ徹夜、年間百本というべらぼうな撮影本数、監督や脚本家や俳優がガンガンぶつかりあうすさまじい現場の光景がこれでもかと描写されるが、中でも印象的だったのは、この集団がもつ「しぶとさ」のようなものだった。

まずはスター中心の時代劇で一世を風靡するものの、それがうまくいかなくなると集団時代劇を生みだして再生、さらに時代劇そのものが行き詰まると任侠路線にシフト。「男の美学」がウケなくなると、今度は実録モノといわれる生々しい映画に移行し、さらにはウケると思えばエロもグロも何でも撮りまくる。

「柳の下には泥鰌は二匹でも三匹でもおるわい!」と、一度当たった路線は客に飽きられるまで徹底的に踏襲する。そこからの路線転換も、それまでの成功体験もあればスターへの配慮もあってなかなかうまくいかないのだが、しかし強引にでもそれをやってしまうのが東映京都の底力であろう。特に中興の祖と言われる「鬼の岡田」のエンジンは強力だった。

もっともそれが、岡田の「老い」とともに東映が凋落し続けるのを誰も止められず、現在の東映京都の痛々しい姿につながってくるのだから、皮肉と言えば皮肉である。高岩氏の著作にも書かれていたが、晩年の岡田は、『蒲田行進曲』が持ちこまれた際は「撮影所の裏話はドロドロしすぎや。俺らは面白いけど、客は振り向かんよ」とつっぱね(結局、映像化権は松竹が獲得)、『南極物語』も「犬の映画なんか当たるか」とボツにしたところ、やはり他社が映像化して大ヒットした。

そこで東映京都の大功労者である岡田を突き上げ、新しい映画を作っていく若手を育ててこなかったことが、結局は東映の没落につながったと著者は指摘している。もちろん、それはあるだろう。

だがそれにしても、全盛期の東映京都撮影所の無法地帯ぶりは、やはりあの時代にのみ可能だった映画界のあだ花であったように思えてならない。ヤクザや業界のフィクサーが出入りし、現場のスタッフも役者連中も荒くれ者揃い。その迫力は、楽屋の割り振りをミスった黒沢明が役者に凄まれ、ヤクザだと思い込んだほどだったという。

しかし同時に、何と言っても東映京都は、たたき上げのプロ集団の巣窟でもあったのだ。上からの締め付けで無茶な企画に低予算での映画づくりを強いられ、しかしそこを何でもありの創意工夫で突破していく映画人の凄みが、そこには光っている。東映没落の悲劇は、かつては「日本一」とまで称された映画プロ集団が、方向性を見失った東映上層部の迷走のあおりを食らって衰退せざるを得なかったことだ。

だから本書は、東映京都の「あかんやつら」の活躍を描いて痛快ではあるものの、一方では、何度でも路線を変えて復活してきた彼らが、最後に迎えつつある「本当の没落」を前にする痛ましさを感じる一冊でもある。

著者が言うように、確かに東映京都は「熱かった」。だがそれは、すでに還らぬものとしての「熱さ」であり、熱気であったのだ。敗戦直後から高度成長期にかけての日本の、猥雑で熱風のような時代が、二度とやって来ることはないであろう、歴史の一齣であるのと同じように。

本書はその熱い日々を生々しく描き出した、歴史の証言としても貴重な一冊。だがそれ以前に、ちりばめられたエピソードがどれもこれも無類に面白い。映画好きには特にオススメだが、映画好きでなくてもオススメしたい。ただし、これを読んでヤクザ映画にハマっても、責任はもちません。

蒲田行進曲 [DVD]
南極物語 [DVD]