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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1694冊目】柳田国男『妖怪談義』

新訂 妖怪談義 (角川ソフィア文庫)

新訂 妖怪談義 (角川ソフィア文庫)

テーマ読書再開です。今度は「柳田国男」。

柳田国男といえば『遠野物語』だが、最初に興味を惹かれたのは妖怪関係だったので、そこから始めたい。

だいたい、水木しげる京極夏彦も、妖怪モノのルーツをたどると、たいてい柳田国男に行き着く。

もちろん柳田が終着駅ではない。京極夏彦がよく挙げるような、江戸時代の妖怪画などもある。しかしそれでも、妖怪というものに着目し、実際に日本各地の民話や物語を収集・整理した柳田の功績はたいへん大きいものだと思う。

本書はそんな柳田の妖怪関係の文章を集めた一冊だ。解説で小松和彦氏が指摘するように、学問体系としては決して厳密正確なものではないが、それだけに妖怪を語る人びとの「ナマの語り」が活きている。もっとも中には柳田が創作に近いほど脚色したものもあるらしい。

河童、小豆洗い、ザシキワラシ、山姥に山男、一つ目小僧に天狗と、とにかくいろんな妖怪が登場するのが楽しい。後に『山の人生』や『一つ目小僧その他』といった別の論考にまとめられたものも、そのルーツは本書に採録されたような、各地での聞き書きにあるという。

妖怪の呼び名や扱いから、その地方独自の風習や観念、さらには日本中で同じような伝承が見られるところから、日本全体に共通する何ものかを抽出していく手際も鮮やかだ。歴史の教科書などには決して綴られない「裏の日本史」「裏の観念史」のようなものが、ここには土のにおいをさせたまま息づいている。

柳田は、幽霊と妖怪(あるいは「お化け」)は違ったものだと言う。

「人に恨みを含み仇を復せんとする亡魂は別として、その他のおばけたちは本来は無害なものであった。こわいことは確かにこわいが、きゃアといって遁げてくれば、それで彼らの目的は完了したように見える。単に化物などというものはこの世に無いはずといったり何がこわいなどと侮ったりする男が、ひどい目に遭わされるだけである」(p.62)

この言葉のとおり、確かに本書に出てくる河童や山人、天狗たちは、いろいろ人間にちょっかいをだしてはくるものの、それ以上の決定的な危害を加えてくることは、驚くほど少ないのだ。妖怪とは決して西洋のモンスターではないのである。

そしてまた、妖怪たちの行動を通して、今やすっかり失われてしまった日本社会のルーツがいろいろ見えてくる。例えば河童や山男どもは、なぜかやたらに相撲を好み、人間を見ると相撲を取りたがる。これはなぜだろうか。

本書によると、古来相撲は神事だった。勝敗は単なる個々の力士の力量によるものではなく、勝った者は神が与したからこそ勝ったのであり、神霊の加護がいずれにあるかを競うのが相撲だったのだ。だから河童や山人が相撲を取りたがるのは、それを通じて「我威力を承認させねばならなかった」ためであり、つまりは神の加護を人間と競う行為であったというワケだ。

神隠しの話も興味深い。とりわけ黄昏時、子供や若い男女が行方をくらますと、それは山の神、あるいは山人たちに取られたものとされた。いったん姿を消した者が、その後一度だけ里に姿をあらわすというのも面白い。ちなみに黄昏とは「誰そ彼」であると柳田は言う。夕刻は人の見分けがつきづらくなる時間帯であり、ということは、通りすがった相手が人かもののけかも分からない。だからこそ特に夕刻、人はすれ違うたびに挨拶を交わし、挨拶がない者はヘタをするともののけ扱いをされたらしい。

神隠しの裏側には、山に住む人々の伝承があった。彼らは山人、山男、巨人、デイダラボッチなどと呼ばれた。本書で柳田は、彼らを山に隠れた日本の先住民ではないかと書いている。先住民たちの多くは蝦夷などと呼ばれて日本の北の方に逃げたが、中には山に住んだ者もいたというのである。これがのちの天狗伝承にもつながってくる。また、神隠しに遭った人々は、彼らの嫁や婿として迎えられ、そのまま山の中に住むことになったらしい。

本書には他にもこうした関係づけ、関連付けの例が山ほど載っている。雑学としても非常に面白いネタばかりだが、ただの雑学と違うのは、それが日本の古層、深層に達する深さをもっていることだろう。デイダラボッチなど、そのまま流れ流れて宮崎駿の「もののけ姫」にまで至っているのだ。まったく、あなどれない。