自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1548冊目】ティク・ナット・ハン『小説ブッダ』

小説ブッダ―いにしえの道、白い雲

小説ブッダ―いにしえの道、白い雲

著者ティク・ナット・ハンはベトナムの禅僧だ。ベトナム戦争下で平和と停戦を訴えてフランスに亡命、「行動する仏教」(エンゲージド・ブッディズム)を提唱。実際に平和活動や難民救済に関わり、キング牧師にも影響を与えたとされている。一方では瞑想と修行を通した「気づき」の生活のための共同体「プラム・ヴィレッジ」を主宰している。

この「読書ノート」でも、ずいぶん前に『あなたに平和が訪れる禅的生活のすすめ』というすばらしい本を紹介したことがあるが、その後もなんとなく、このベトナムの僧侶のことは気になっていた。

少なくとも、日本のお寺にいる仏教徒とはだいぶ違う。なんというか、本を通して読み取れるかぎり、人物としてホンモノなのだ。そのことは、その後ちらちら読んだ何冊かの本からも伝わってきた。

本書はそのティク・ナット・ハンが書いた「小説」としてのブッダ伝だ。と言っても、普通ならドラマティックに描かれるような悟りを得るまでのいろんなエピソードは、本書では淡々と描かれるのみ。むしろ「ブッダ」(覚者)となってからの説法の日々が中心になっている。

したがって、小説だからといって波乱万丈や喜怒哀楽を期待し過ぎると肩すかしを食う。むしろ本書は、物語としての形式を取ることで、ブッダの思想と言行をリアルに伝えるための一冊なのだ。思えばブッダ自身、自らの教えを伝えるために物語を多用したが、ティク・ナット・ハンは意図してかどうか、そのひそみにならったといえるかもしれない。

そのため、本書には仏教の経典からのエピソードや、そこに描かれているブッダの教えがたっぷりと含まれている。というより、経典の内容を解きほぐし、物語として組み立て直した結果、この本が出来ていると言うべきだろう。巻末には、どの章のエピソードの出典が何という経典のどこに書かれているかという「インデックス」までついている。

ちなみに、本書に使われている経典はすべて小乗仏教のものであり、日本でハバを利かせている大乗仏教系の経典は採用されていない。小乗の経典のみで、ブッダ自らが語った内容は尽きているとみているのだろう。そして、経典からエピソードが取られているとはいえ、そこにはティク・ナット・ハン自身の考え方も、そうとう色濃く反映していることと思われる。

とはいえ、それを差し引いても、本書はブッダの思想を理解するにはとても良い一冊である。物語のダイナミズムに乗せて、対話形式やたとえ話が豊富に盛り込まれているので、経典だと難しくそっけないブッダの言葉が、血の通ったリアルで切実なものとして伝わってくる。特に「諸行無常」「諸法無我」の意味が、ここまで骨身に沁みるレベルで分かったのは本書のおかげだった。難解とされる「空」についてまで、なんだか理解できたような気になってしまった。

「すべてのものに生も死もありません。生と死は心がつくった観念なのです。すべてのものは満ちてもいず、空でもなく、つくられもせず、滅びもしない。汚されもしないし清くもない。増えもしないし減りもしない。去ることも来ることもなく、一でもなく多でもない。これらすべては単なる観念にすぎません。〈空〉を瞑想することによって、すべてを区別してやまない観念の世界を超えて、すべての本質を悟ることができるのです」(p.320)

いやはや、やっぱりブッダはスゴイ。仏教ってものすごい。私にとっては『老子』以来のディープ・インパクトだ。

しかし、さらに仏教がすさまじいのは、こうした教義を知ること自体は手段にすぎないという点だ。そこから先こそがブッダ思想の核心であり、深奥なのである。有名な「月と指のたとえ」を引いて、終わりにしたい。あとはただただ、ティク・ナット・ハン老師の言われるように、「気づき」をもって今を生きるのみ。

「比丘たちよ、教えとは単に真理を説明する手段にすぎません。教えを真理そのものととり違えてはいけないのです。月を指し示す指は月ではありませんね。月がどこにあるかを知るために指が必要ですが、指と月そのものをとり違えてしまったら、永遠に真実の月を見ることはできません」(p.273〜274)