自治体職員の読書ノート

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【1404冊目】『丸山眞男セレクション』

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

日本ファシズム論に関連して丸山眞男を読みたいと思い、でも今まで全然読んだことがない思想家だったので入口に迷い、amazonでアタリをつけたのがこの本。そもそも丸山眞男の仕事の全体像が良く分かっていないので、本書がどの程度カバーできているのかよくわからないのだが、少なくとも読みたかった「超国家主義の論理と心理」「軍国支配者の精神形態」と関連しそうな論文が入っていたので選んだ次第である。

特に日本ファシズム論に関しては「軍国支配者の精神形態」が面白かった。ナチズムやイタリア・ファシズムと対比しつつわが国の支配構造を「無責任の体系」と断じたのは有名な話だが、それに続いて日本の政治的人間像を「神輿」「役人」「無法者」に分類したくだりはさらに秀逸。軍隊や政治だけでなく、会社や役所から趣味のサークルまで、わが国の組織の本質をたくみにえぐっている。ちょっと長いが、引用する。

「国家秩序における地位と合法的権力からいえば「神輿」は最上に位し、「無法者」は最下位に位置する。しかしこの体系の端緒は最下位の「無法者」から発して漸次上昇する。「神輿」はしばしば単なるロボットであり、「無為にして化する」。「神輿」を直接「擁」して実権をふるうのは文武の役人であり、彼等は「神輿」から下降する正統性を権力の基礎として無力な人民を支配するが、他方無法者に対してはどこか尻尾をつかまえられていて引きまわされる。しかし無法者もべつに本気で「権力への意思」を持っているのではない。彼はただ下にいて無責任に暴れて世間を驚かせ快哉を叫べば満足するのである」(p.183)

国家のみならず、会社やNPOなどの組織に属する方なら、言っていることはなんとなく分かるのではないか。役所で言えば、神輿は首長からせいぜい管理職、役人はだいたいヒラ〜係長クラスまで、無法者はクレーマーや圧力団体(一部議員も?)であろうか。いずれにせよ声の大きい「外部の関係者」に振り回されたヒラの役人が、その声に押されて何らかの意思決定を起案し、「神輿」たる上司がそれによくわからずハンコを押す。そんなプロセスで成り立っている事業や意思決定がいかに多いことか。

なら無法者が直接権力を握れば手っ取り早いのではないか、とも思われるが、なぜか日本の組織はそうはならない。たいてい「無法者は自らをヨリ「役人」的に、乃至は「神輿」的に変容することなくしては決して上位に昇進できないということであって、そこに無法者が無法者として国家権力を掌握したハーケンクロイツの王国との顕著な対照が存するのである」(p.184) その過程で「無法者」は骨抜きになり、役人や神輿となって新たな無法者に振り回され、牙を抜かれるという仕組みになっている。

さて、ファシズムに関して言えば、本書にはもうひとつ興味深い指摘がある(「肉体文学から肉体政治まで」)。ここではファシズム「人々が近代的なフィクションの意味を信じられなくなったような時代の子」(p.204)と言っているのだ。

この点についてはその後の「日本の思想」での、次の一文をあわせて読むとよいだろう。ここでは、ほんらい現実の一部を取り出して抽象化したに過ぎない(つまり「フィクション」である)理論や概念が「フィクションとしての意味を失ってかえって一種の現実に転化してしまう」(p.334)と書かれており、理論信仰・概念信仰のあやうさが指摘されているのだ。信じるべきフィクションが失われたわずかな隙間に、するりと入り込んでくるのがファシズムであるというのは、以前読んだ別の本でもたしか指摘されていた点であった。

他にも平和主義やデモクラシーなど、扱われているテーマは幅広く、しかしどこかで通底しているところがあるような気がして興味深い。特に福沢諭吉への傾倒ぶりはものすごく、えこひいきといってもいいくらいのなりふり構わぬ持ち上げ方だ。その理由を、明治維新という大転換期に生きた福沢と、敗戦というもうひとつの日本の転換期に生きてその意味を探った丸山との、置かれた立場の類似性に求めるのはちょっと安直だろうか。