自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1508冊目】カール・ポランニー『市場社会と人間の自由』

市場社会と人間の自由―社会哲学論選

市場社会と人間の自由―社会哲学論選

  • 作者: カールポランニー,Karl Polanyi,若森みどり,植村邦彦,若森章孝
  • 出版社/メーカー: 大月書店
  • 発売日: 2012/05
  • メディア: 単行本
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カール・ポランニーの論文、講演原稿、未刊行の草稿などを集めた一冊。書籍化されているのは『大転換』最終章のみ(本書第9章に掲載)で、他は初めて書籍化されたらしい。

かなり完成度の高いものから途中で途切れているもの、やや論理が生煮えのものや勇み足気味のものまで、さすがにいろいろ混じっている。荒削りな部分もあるが、その分、ポランニーの「生の」思考に触れられる醍醐味がある。

全体を通じて繰り返し語られているのが、市場経済と市場社会について、自由について、社会主義について、そしてファシズムについて。以前読んだ『経済の文明史』も論文集であり、同じようなテーマが扱われていたが、やはりこうしたテーマがポランニー終生の課題だったんだなあ、と再認識させられた。

自由については第2章「自由について」でかなり突っ込んだ検討がなされているが、ここでは人間が社会的生活を営む以上、そのことを無視した自由は成り立たない、という点が強調される。

「自由であるというのは…(略)…義務と責任を担うことによって自由だということである」(p.34)とポランニーは言う。ここで重要なのは、「自由には責任が伴う」のではなく、極論すれば「自由とはすなわち責任ということだ」ということ。なぜなら、社会的な結果をまったくともなわない人間の活動など存在しないのだから。

「周囲の環境に対する、友人に対する、家族や人生の伴侶や子供に対する人間の関係、自分自身の能力や仕事に対する関係、自分自身との関係、首尾一貫性と誠実さ、それらとともに人間は自分自身と向き合い、内面的良心に対して死によって制約された運命の責任を負う。ここに作用しているのが個人的自由であり、それによってはじめて人間は人間になれるのである」(同頁)

言うまでもなく、ここでの「自由」はいわゆる新自由主義的なニュアンスでの「自由」とは大きく異なる。これに関連して、もうひとつ重要な指摘がある。それは、(社会主義にくらべて)自由主義的資本主義では相互の依存関係に気づかれにくいため、各自が自立しているという誤解が生まれやすい、ということ。またもや引用する。今回はなんだか引用ばっかりだなあ。

社会主義のもとでは、社会の透明性が増していくので、われわれは他者に負っている負債を支払うことができる。そうすることによって、われわれは社会を超え、人格的な領域に到達することができる。自由主義的資本主義の自律的個人は、単に自分の依存関係に気づいていないがゆえに、自立的である。しかし、彼がそれに気づいていないのは、ただ道徳的感受性が欠落しているためである」(p.134)

1930年代前後に書かれたファシズム論も興味深い(本書第2部)。ここではファシズム社会主義を対比的に論じているものが多い。中でもキーポイントとなるのがファシズムは、十分に発展した産業社会における民主主義と資本主義の両立不可能性から生じる」(p.105)という指摘。ん? 両立不可能? 民主主義と資本主義が…?

民主主義と資本主義の組み合わせに、われわれはそれほど違和感を覚えないが、どうやら、ポランニーにとって両者は並び立たないものであったようだ。当時の時代認識の限界もあるのだろうが、ポランニーの考えでは、民主主義では労働階級が影響力をもつため社会主義に結びつきやすく、ファシズムは民主主義を犠牲にしても資本主義には手をつけないという。

もちろん、このあたりについてはいろいろツッコミどころが多い。そもそもファシズムは民主主義を排したところに始まるのではなく、むしろ民主主義のひとつの帰結として始まることが多いのではないかと私などには思えるし、民主主義もまた、マジョリティが労働者階級であったとしても、必ずしも社会主義に結びつくとは限らないのは歴史が証明している(もちろん、このあたりの警戒があったからこそ普通選挙運動には大きな抵抗があったのだろうが)。

例えばこのブログでは何度も取り上げているが、小泉首相の時のいわゆる郵政解散は、新自由主義的な政策を推進させることが明らかだった当時の小泉自民党の政策に、当の政策でもっとも被害をこうむるはずの若年層が同意を与えるという、ポランニー流の理解と真逆の結果が生まれた。

もちろんポランニーは予言者ではないのだから、社会主義ファシズムの未来を1930年代の次点で見通せ、というのはムリがある。むしろ、その予測や指摘が本質的なところでかなり的を得ていることに驚くべきなのだろう。例えば第14章「自由と技術」ではこんなふうに書かれている。

「……複雑な社会に対する技術の危険の現実的な影響のために、私たちは恐怖の瀬戸際を通過しているのです。社会は壊れやすく、その存在は不安定です。この意味で、複雑な社会は初期社会と似ています。(略)初期の社会における迷信は自然災害への恐怖の結果である、としばしばいわれてきました。当然のことながら、私たちはこのような恐怖を非合理的と形容します。しかしながら、押しボタン式の生活に突入した大きな社会が恐怖をもたらす可能性は十分にあるのです。技術文明は押しボタンの平和のもとで存続しますが、その結果、権力を創出することになるのです。だとすれば、技術は想像以上に自由の現代的課題と密接に関係している、といえるでしょう……」(p.292)

多分核戦争のことを想定しているんだろうが(本稿が書かれたのは1955年)、自然災害と技術について言われると、私はどうしても福島第一原発のことを考えてしまう。現代の日本のような高度な技術を具えた複雑な社会が置かれている状況は、本質的なところで、初期社会とあまり変わるところはないのかもしれない。

他にも本書ではルソー論やガルブレイスアリストテレスの比較など、けっこういろんなことが書かれた文章が集まっている。中にはかなり分かりにくいもの、時代によって考え方が変わってきているためその移り変わりを捉えづらいものもあるが、まずはこうした形でカール・ポランニーが注目され、新たな本が編まれるようになったということ自体を喜びたい。今の世の中こそ、ポランニーの思想を必要としているのだ。

[新訳]大転換 経済の文明史 (ちくま学芸文庫)